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2017年8月13日 (日)

2017年8月13日(日)聖霊降臨後第10主日聖餐礼拝説教「湖の上を歩く」

2017813日(日)聖霊降臨後第10主日聖餐礼拝 説教「湖の上を歩く」大柴譲治

マタイによる福音書 14:22-33

夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、「幽霊だ」と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた。イエスはすぐ彼らに話しかけられた。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない。」(26-28節)

 

湖の上を歩くイエス

 本日の福音書の日課には湖の上を歩くイエスと弟子のペトロの姿が記されています。場所はガリラヤ湖。ガリラヤ湖では突然突風が吹くということがよく起こったようです。12弟子の中にはガリラヤ湖の漁師たちもおりましたので、幼い頃から湖の変わりやすい状況はよく知っていたに違いありません。

 イエスはパン五つと魚二匹を用いて五千人の人々を満腹させ、残ったパンくずは12の籠一杯になったほどでした(14:13-21)。その出来事の直後のことです。「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ、その間に群衆を解散させられた」22節)。「強いて」とありますが、もしかしたら弟子たちの中には湖の状況を見て体験的に、既に夕方になっていたでしょうから、今この時点でガリラヤ湖に舟を出すのは危険だと感じていた者もいたのかもしれません。イエスは彼らの杞憂と不安とを知った上で、彼らを「強いて」舟で出発させたのでした。それは彼らに「信とは何か」という信仰の神髄を教えるためでもありました。

 イエス自身はどうされたかというと、「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった。夕方になっても、ただひとりそこにおられた」とあります(23節)。イエスにとって「祈り」は天の父なる神との豊かな交流の場でした。イエスはしばしば祈るために一人になっています。祈りを通して父の御旨を知り、力をいただき、父と子の一体性というものを確認しておられたのでありましょう。祈りこそ力の源だったのです。

 一方舟の方はどうか。「ところが、舟は既に陸から何スタディオンか離れており、逆風のために波に悩まされていた」とあります(24節)。1スタディオンは185mですから、舟は既に岸から1キロほど離れていたのでしょう。予想していた通り、突風のために弟子たちの舟は漕ぎ悩んでいました。プロの漁師たちの手にも余るほどでした。時は既に夜。闇の中で木の葉のように揺れ動く舟。湖の怖さを知っていた弟子たちは、生きた心地がしなかったはずです。必死でイエスの助けを祈ったに違いありません。

 その祈りに答えるようなかたちで、イエスは湖の上を歩いて舟のところに行かれます。「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところに行かれた」(25節)。信じられないことが起こった。アメンボではないので、通常人間は水の上を歩くことはできません。しかしイエスはそれをなさったというのです。人にはできないことでも神にはできる。私たちは神にできないことはないと受け止めるしかないのでありましょう。恐らくこの「湖の上を歩く」という出来事の背後には「信とは何か」という深い意味が隠されているのです。

 弟子たちの反応はいかにも率直でした。「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、『幽霊だ』と言っておびえ、恐怖のあまり叫び声をあげた」(26節)。私たちも同じです。暗い闇の中、突風で荒れ狂う湖の上を、泳いでならまだ分かりますが、何と湖の上を歩いてイエスが舟に近づいて来られたのですから。

 イエスはすぐ彼らに話しかけられました。「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」(27節)。イエスのこの声にどれほど弟子たちはホッとしたことでしょう。人生山あり谷ありですが、私たちもまた要所要所でイエスの「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という確かな声を聴く者でありたいと願うのです。

ペトロの大胆さと失態と

 私たちはペトロの申し出に驚かされます。ペトロは極めて大胆なのです。「主よ、あなたでしたら、わたしに命令して、水の上を歩いてそちらに行かせてください」(29節)。イエスはそれを認めて「来なさい」と言われます。すると、「ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ」のです(30節)。そこで起こった出来事は私たちの思いを遙かに越えた出来事でした。ペトロもイエス同様に湖の上を歩くことが出来たのですから。「求めよ、さらば与えられん」です。信じれば山をも動かすことが出来るのでありましょう。信仰のまなざしの中では到底不可能なことが可能となってゆくのです。

 続いて起こったことはいかにもペトロらしいことでした。「しかし、(ペトロは)強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ」のです(31節)。ペトロは漁師です。幼い頃からガリラヤ湖のほとりで育ちました。だから泳ぐことは得意だったでしょうし、いざというときにどう対処すれば良いかはよく知っていたはずです。そんなペトロが溺れかかるという失態を見せる。恥ずかしい姿、破れた姿を見せるのです。私はこのようなペトロの人間性に強く惹かれます。このような破れた不信仰な人間を、イエスは捉えて離さないのです。「イエスはすぐに手を伸ばして捕まえ、『信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか』と言われます(31節)。そして、二人が舟に乗り込むと、「風は静まり」ます(32節)。33節には「舟の中にいた人たちは、『本当に、あなたは神の子です』と言ってイエスを拝んだ」とあります。この一連の出来事を通して弟子たちは再度、イエスこそ神の権威を持った神の子であることを再認識し、その信仰を強められてゆくのです。

 

信仰とはイエスへの信頼

 このペトロの水の上を歩くという出来事、溺れかけるという出来事が何を意味しているかが本日の主題です。この出来事は信仰というものの本質をよく私たちに伝えています。湖の上を歩くということはそもそも人間には不可能なことです。しかしペトロはイエスの言葉を信じ、イエスに向かって水の上に大胆に足を踏み出しました。イエスを信頼した実に勇気のある行為です。「ペトロは舟から降りて水の上を歩き、イエスの方へ進んだ」のです(30節)。イエスをまっすぐ見つめてペトロは水の上に足を踏み出しました。すると水の上を歩くことが出来た。少なくとも数歩は歩けたのです。イエスに対する絶大な信頼がそれを可能としたと申せましょう。しかしペトロは、「強い風に気がついて怖くなり、沈みかけたので、『主よ、助けてください』と叫んだ」のでした。イエスから目を離し、周囲の風が逆巻く状況に目を向け、思いを向けた瞬間に、ペトロは動転し、沈みかけ溺れかけてゆくのです。私たちもまたこのエピソードから学ぶべきことは、信仰とは「イエス・キリストへの集中」ということです。どのような状況の中にあってもただキリストのみに目を向け、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言ってくださるお方のみ言葉に信頼し、そのお方に向かって足を踏み出してゆく時、私たちの思いを越えた恵みの出来事が起こるのだと聖書は告げているのです。

 今日も私たちは聖餐式に招かれています。「これはあなたのために与えるわたしの身体。これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」。そう言って弟子たちにパンとブドウ酒を分かたれたイエス・キリスト。この食卓に今日も私たちは招かれています。私たちはこのイエスの招きの言葉の中に「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」という声を聴き取りたいのです。そこからイエスのみを見つめながら、私たちに向かって「恐れずに、来なさい」と告げてくださるイエスに信頼して、大胆に逆風の湖の上にその一歩を踏み出してゆきたいのです。お一人おひとりの上に主の豊かな祝福がありますように。アーメン。

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