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2017年8月 9日 (水)

2017年7月30日(日)聖霊降臨後第8主日礼拝説教「彼岸と此岸」

2017730日(日)聖霊降臨後第8主日礼拝説教「彼岸と此岸」大柴譲治

マタイによる福音書 13:31〜33,44〜52

「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う。」(14:44

 

天国の譬え

 本日は五つの「天の国の譬え」が告げられています。①「からし種の譬え」、②「パン種の譬え」、③「畑に隠された宝の譬え」、④「高価な真珠の譬え」、⑤「大量の魚の譬え」の五つです。先週の「毒麦の譬え」も天国の譬えの一つでしたし、13章の最初に出てくる「種を蒔く人の譬え」もやはりその一つですから、イエスが様々な場所で語られた天国についての譬えをマタイはこの13章に並べて配置したと考えられましょう。

 ちなみに「天の国」とはマタイがとりわけ好んで用いる表現で、マタイ福音書には33回も用いられていますが、他の福音書には一度も出てきません。「神の国」という語は、マタイに5回、マルコに14回、ルカ24回、ヨハネに2回出てきます。「天の国」とは「神の国」と同じ意味です。「国」と訳されている語は「バシレイア」というギリシャ語で、それは空間的な「領土」というよりもむしろ「支配」とか「統治」という「関係」を意味する語で、「天(神)の国」とは「天(神)のご支配」「天(神)の統治」という意味になります。

 「天国」と聞くとどこかでそれは私たちが将来「死後に入ってゆく国」という意味で受け止めているかもしれませんが、実はそうではありません。日本では「彼岸と此岸」という表現がありますが、「天国」とは三途の川の「向こう岸」にある「彼岸」ではない。今ここでの「神の統治」を言っているのです。その証拠にイエスの語る天国の譬えはこの地上での出来事が天上での出来事とつながっていて、それらが重なっていることが分かります。①「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる」という「からし種の譬え」も、②「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる」という「パン種の譬え」も、この地上において天国とつながって生きる時に、その人の人生は豊かな祝福と喜びに満ちた生になるということなのです。いつかどこか、遠い所においてそうなるというのではない。「今ここ」で、私たちが神のご支配の下に生きる時、私たちはそこから大きな祝福に与ることができるというのです。パウロはフィリピ3:20でそれを別な言い方で伝えています。「わたしたちの本国は天にある」(国籍は天にあり)」と。そう告げることで彼は私たちが「いつどこにおいても」、つまり「今ここで」、インマヌエルの神との揺るがぬ「我と汝」という応答関係の中に生きていると語っているのです。

 そうです。三つ目の譬え(③)にあるように「畑」「宝」は隠されています。ここで「畑」とは「この世界」「私たちの日常生活のこと」で、そこに貴い「神の宝」が隠されている。「見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」ほどの宝です。四つ目の④「高価な真珠の譬え」も同様です。「商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」。それらは、それまでの自分の持ち物すべてを売り払っても余りあるほど価値あるものなのです。その真珠を発見した者は、そのすばらしさのゆえにそれまでとは全く異なる新しい生き方に変えられてゆくのです。ここで私は、生活費のすべてであるレプタ銅貨二つを神殿に捧げたあの一人の貧しいやもめのことを思い起こします(マルコ12:42、ルカ21:2)。イエスは賽銭箱の向かいに座って、群衆がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。『はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである』」(マルコ12:41-44)。彼女の行為は、自暴自棄の自殺的な行為ではありませんでした。むしろ逆です。畑に隠された宝を見つけた者や高価な真珠を見つけた商人同様に、喜びと感謝に満たされた行為、神の恵みに対する信仰による応答の行為であったはずだからです。江口再起先生の表現を借りれば、「神の恩寵義認」に対する「感謝の応答の行為」ということになりましょう。

 

私たちにとっての「宝」とは何か

 ある先輩牧師がこう言いました。「私たちの時間とお金は自分の心のあるところにしか向かわない」と。確かにその通りです。自分の心があるところにしか時間とお金は向かわないのです。先週の女性会である方が「いのちとは生きられる時間である」という日野原重明先生の言葉をシェアしてくださいましたが、これまた真実な言葉です。私たちが「一番大切にしているものが何か」は、私たちが一番お金と時間とエネルギーをかけているところに実は明らかです。美味しいものを食べることを大切にしていれば食費にお金がかかりますし、子供の教育を大切にしていれば教育費にお金がかかるでしょう。旅行が好きであれば旅費に、友だちと楽しむためには交際費に、趣味を大切にしていれば趣味の費用にお金がかかりますし、同時に時間とエネルギーをそこに使うことになります。大阪ハインリッヒ・シュッツ室内合唱団がこの教会で毎週練習し、毎月マンスリーコンサートを行っています。最近すばらしい讃美歌CDを出されました。彼らにとってはその活動の中に自分たちの宝を持っているのだと思います。皆さん自分の仕事をしながらの音楽活動ですので、彼らの合唱に対するその熱意と献身性には身近にいて本当に頭が下がります。中には名古屋で医師をしながらも毎週大阪まで通ってこられる方もおられるくらいです。そのように私たちの宝は一人ひとり異なりますが、それは各自にとって「生きがい」という大切な役割を果たしています。自分が時間とお金を何に使っているかを振り返ってみれば、自分の心が何に向かっているか、自分が何を宝物にしているかが分かります。私などは本が好きで書物と勉強に時間とお金とをかなり使ってきたと思います。自分では牧師として説教準備のために必要と思っていますが、もしかすると自己満足なのかも知れません。やがて神が明らかにしてくださることでしょう。

 

大いなる救いの喜びの中で、「彼岸」と「此岸」とを同時に生きる

 本日与えられた福音書のみ言葉が「天の国の譬え」であったという点に再度戻りたいと思います。①「からし種」②「パン種」の譬えは、天とつながることが私たちの予想を遥に超えた巨大な喜びに膨らんでゆくことを示していました。③「畑に隠された宝」「高価な真珠」の譬えは、それが得難く何ものにも代えがたい高価な宝であるということ、それを手に入れずにはおれないほどのものであるということが示されていました。⑤「大漁の譬え」は、先週の「毒麦の譬え」同様、よい魚と悪い魚をより分ける時が来るので「最後の審判」のために備えるよう私たちに促しています。「また、天の国は次のようにたとえられる。網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める。網がいっぱいになると、人々は岸に引き上げ、座って、良いものは器に入れ、悪いものは投げ捨てる。世の終わりにもそうなる。天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」(47-50節)。私たちにはドキッとするほど鋭い言葉です。

 私たちの目の前に「喜びに満ちたいのち」「苦しみに満ちたいのち」が置かれているとすれば、もちろん私たちは前者を選びたいと思います。そのためにも、どこか遠い未来のことではなく、今ここでの、神としっかりとつながった、生き生きとした信仰の生活が求められるゆえんです。「天の国に生きる」とは「今ここ」での「神のご支配/統治の下に生きること」を意味するからです。「彼岸」(向こう側)「此岸」(こちら側)とを分けるのではなく、「今ここ」というこの「此岸」において「彼岸」(天の国)と一つに繋がった生き方をするよう求められています。彼岸と此岸とを、天上と地上とを同時に生きるのです。イエスはこの地上においても天の父に対して「アッバ(お父ちゃん)」と親しく呼びかけつつ、父の御心に徹底して服従する生き方を貫き、十字架の死に至るまで従順に歩まれました。「国籍は天にあり」です。私たちは今ここで、信仰者として、神とつながりながら、天上と地上との二重国籍を生きる。そこには、レプトン銅貨二つを惜しみなく捧げた一人の女性がその悲しみ多い人生の中で深い慰めと喜びとを深く味わうことができたのと同様、私たちの思いを遙かに超えた大きな慰めと喜びと祝福とがイエスによって約束されているのです。お一人おひとりの上に神さまの豊かな守りと導きと祝福とをお祈りいたします。 アーメン。

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