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2017年7月15日 (土)

2017年7月9日(日)聖霊降臨後第5主日礼拝説教「重荷を負う者を招く主」

201779日(日)聖霊降臨後第5主日礼拝説教「重荷を負う者を招く主」  大柴 譲治

マタイによる福音書 11:16〜19,25〜30  (第一日課:ゼカリヤ書9:9〜12)

疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。(28-30節)

 

重荷を負う者を招く主

 本日の福音書には聖書の中でも一番よく知られているイエスのみ言葉が記されています。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」。これは、私自身も毎週の礼拝の聖餐式の最初の部分で招きの言葉として語っている言葉でもありますし、大阪教会の新しい案内リーフレットでもど真ん中に書かれている言葉です。これまでどれほど多くの人々がこの招きの言葉から深い慰めを受けてきたことであろうかと思わされるのです。
 私たちはイエスの声に繰り返し耳を傾け続けることが大切なのだと思います。イエスの招きの声が聞こえてくるように耳を澄ませるのです。
「すべて重荷を負って苦労している者は、わたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」。このような主の招きの言葉は、味わい知れば知るほど、信じる者たちの拠って立つ足場を支え、信仰者たちに「休み」と「安らぎ」を与えてくれていることが分かります。

 

イエスの「柔和と謙遜」、そして「軛」の意味

 この部分の意味を少し解説しておきたいと思います。イエスはご自身を「柔和で謙遜な者」と呼んでおられます。これは本日の第一日課ゼカリア書9章の預言の成就にも関わる表現なのですが、イエスのエルサレム入城の場面を思い起こしていただければよいでしょう(マタイでしたら21:1-11です)。力を象徴する軍馬ではなく、柔和と謙遜さを象徴するロバの子、チイロバに乗ってイエスは神の都エルサレムに入城されました。「ホサナ(今、救ってください)」と叫んで棕櫚の葉や衣を道に敷くイスラエルの人々の熱狂的な叫びの中でただ黙って神の平和の都に入場してゆかれたのです。何がそこで起こるのかを明確に意識しながら。イエスは神が備えた救いの玉座に着き、王の冠をいただくために。その玉座とはゴルゴダの十字架でしたし、その王冠は茨の冠でした。イエスはチイロバに乗ってエルサレムに入城してゆかれるのです。高きに上ってゆくのではなく、低きに、最も低いところに降ってゆかれたのです。人々に軽蔑され、見捨てられ、苦しめられ、十字架を背負わされて、殺されてゆくために。しかしその傷によって私たちの罪は赦され、私たちには癒やしが与えられたのでした。そのことは「苦難の僕」としてイザヤ書53章に預言されていたとおりです。「わたしは柔和で謙遜な者であるから」というイエスの言葉は、私たちのために十字架に架かってくださったイエスの「柔和と謙遜」を表しています。

 「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい」とは何を意味するか。「軛」というのは、私は実際に見たことはないのですが、農作業などで二頭の牛や馬、ロバ等を並べ、その二頭の首にかけて鋤や鍬、荷物などを引くための道具です。「キリストの軛」とは、私たちが背負っている重荷をイエスが私たちの隣に並んで、肩を貸してくださり(あるいは肩代わりし)、一緒に背負ってくださるということです。ちょうど「キレネ人シモン」がイエスの十字架を肩代わりして背負ったように(マタイ27:32)、イエスは私たちの十字架を共に重たい軛として負って背負ってくださるというのです。もっともシモンの場合にはたまたまエルサレムに巡礼に来ていたのでしょう、倒れたイエスの代わりにローマの兵卒たちに無理矢理にその十字架を背負わされたのですが、イエスは自ら進んで私たちの十字架を背負ってくださいました。そのことを通してシモンはやがて初代教会のメンバーになっていったと伝えられています。マルコ15:21「アレクサンドロスとルフォスの父」とありますので、彼らは初代教会ではよく知られていたのでしょう

 そしてイエスは言われました。「わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と。「安らぎを得られる」というところには原語では「あなたがたの魂(プシュケー)において」という語が付されています。キリストの軛を負うことで私たちは魂に安らぎを得ることができるのです。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」という言葉は、キリストの軛が首にピッタリとフィットしてその重荷を軽くするような、私たち自身のために作られたようなオーダーメイドの軛であるということを意味しているように思われます。私の重荷(それは一人ひとりにとって異なる重荷でありましょうが)である「私の十字架」を負うためにイエスは私の隣に並んで立ち、その軛を背負って下さるというのです。だから私たちの重荷は軽くなり、担いやすくなるのです。「すべて重荷を負う者はわたしのもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう」という主の招きの言葉は、私たちにそのようなかたちで重荷を共に担ってくださる主イエス・キリストの姿を提示しています。「わたしがあなたと共にあって、あなたの重荷を共に担う。だから安心しなさい。わたしはあなたを決して見捨てない」。そのように言ってくださるお方がいる。私たちが人生の中でこのお方に出会う時、キレネ人シモンの生涯が、十字架を背負うキリストとの出会いによってそれ以降劇的に変えられたように、私たちの人生も変えられて行くのだと思うのです。

 

「重荷を背負う」ということ

 私は牧師として様々な場面に関わらせて頂きます。特にグリーフケア、私たちの心の深い所にある悲しみや怒り、それは魂の悲しみであり、魂の怒りと呼んでもよいかも知れませんが、それをどのようにして私たちは担ってゆくことができるのか、それらを統べてゆくことができるのかということは具体的に大きな問題であると感じます。人生をまとめてゆこうとする時に、私たちは過去を振り返って顧みようとするのです。その際にグリーフ(悲嘆)やアンガー(怒り)をどう扱うか、とても難しい領域です。しかし生育歴やこれまでの人生の歩みを感情というものに焦点を当てながら振り返ることで、その時に未解決であった想い(重荷)を認め、それを誰か(イエス)と共に担ってゆくことが大切担ってゆくのだと思います。一人では重すぎて担えないことでも軛を共に負ってくれるような誰かと一緒であれば、担うことが出来る。

 アフリカの諺に「早く行きたいのであれば、一人で歩きなさい。遠くまで行きたいのであれば、誰かと一緒に歩きなさい」という言葉があることは以前にもご紹介しました。また、ドイツには「誰かと分かち合えば、悲しみは半分、喜びは倍になる」という言い方があるそうです。私たちは独りではないのです。一人で生まれて、一人で死んでゆくように感じるかもしれません。しかし独りではない。多くの方々との出会いと絆、繫がりの中に置かれているのです。先週の水曜日にるうてるホームで大阪教会員の中山フサ姉が天に召されました。この9月に100歳をお迎えになるところでした。物静かで微笑みを浮かべられたそのお顔のまま、安らかに息を引き取られたのです。32年間もるうてるホームの入居者の一員として、シルバーコーラスやサークル活動を楽しみ、影となり日向となって、日曜日の礼拝や毎日の礼拝のご奉仕など心を込めて黙々とし続けられた方でした。620日に病院を退院された後は、「延命治療をせずに自宅で最後を迎える」というご本人の強い自覚と決意のもので「看取りのケア」が始まったのです。るうてるホームは創立52年が経ちますが、中山姉はケアハウスでの最初の「看取りのケア」のケースとなりました。るうてるホームはそのために各事業所各スタッフが力を合わせ祈りを合わせて受入体制を整えてこれに当たりました。ご高齢のためにご兄妹も既に他界されていて、ご葬儀にご遺族は一人も参列することはできませんでしたが、るうてるホームの職員や友人、大阪教会員など50人を越える参列者がありました。フサ姉のことを「わたしのお母さん」と呼んでいたケアハウスの中村部長が喪主の役割を務められました。別離の悲しみだけでなく、多くの人が祈りと力を合わせることで、本当に不思議な愛の御業が起こるということが私たちの目の前に明らかにされたのだと思います。文字通り「るうてるホーム」「ルーテルファミリー」「神の家族」としての印象深いご葬儀となりました。キリストによって私たちにこのような出会い、ご縁が与えられていることを幸いに思ったのは私一人ではなかったと思っています。英語では「理解する」という語は「下に立つunderstandと書きますが、イエスは私たちの苦しみや悲しみ、重荷を私たちより下に立つことを通して背負ってくださったのです。十字架と茨の冠はその柔和と謙遜を表しています。このお方に信頼して、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。祝福をお祈りいたします。

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