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2017年7月 7日 (金)

2017年7月2日(日)聖霊降臨後第4主日礼拝説教「根拠のない自信〜ありのままを受容する祝福」

201772日(日)聖霊降臨後第4主日礼拝 説教「根拠のない自信〜ありのままを受容する祝福」 大柴譲治

マタイによる福音書 10:40〜42

 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。」(40節)

 

相手をあるがままに受容するということ

 向かい合う相手のありのままを受け入れるということ、受容するということは決して容易なことではないと思います。私たちは皆自分の枠組みとか物差しを持っていて、相手がその枠組みにきちんと入っているかどうか、自分の物差しで測れるかどうかというその範囲内で人を受容しようとするからです。自分の枠組みに入りきらない人、自分の物差しで測れない人はある意味で私たちの理解を超えている存在でもありますから、相手をそのままで受容するということは難しいことと思われます。どちらかというとそういう人を私たちは敬遠したり排除したりしてしまいがちです。自分の持つ考え方や感じ方の枠組みを拡張してゆくことが求められています。その際には、相手を測ることで私たちは自分自身も同時に測られているのです。

 本日の福音書の日課でイエスは言っています。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(マタイ1040-42「受け入れる」とはギリシア語で「デコマイ」、「レシーブする、受けとめる」という意味の語ですが、換言すれば「信じる」「信頼する」ということになりましょう。その対位語は「拒絶する」「認めない」「信頼しない」ということです。人生は出会いですから、信頼できる相手と出会えるかどうかは、私たちがこの世で意味ある人生を生きてゆくためにとても重要な事柄です。イエスは自分が出会う人々を愛し、受容してゆかれました。特に貧しい者、小さい者、重荷を負って苦しむ者たちに対して常に温かく優しい眼差しを注ぎます。イエスは「飼う者のない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群集」を見て「深く憐れまれた」お方でした(マタイ9:36)。自らのはらわたがよじれるほどに彼らの苦しみや悲しみをイエスはご自身の中心で受け止められたのです。

 

ホンモノとの出会い 〜 感動体験を求めて

 私たち自身はどうでしょうか。相手を受け入れること、信頼することにおいては、私たち自身の中の価値観や枠組み、物差しが問われることになります。美しい花があっても、それを美しいと感じる心が私たちの中になければその花の美しさに気づくことはできず、花と出会うことはできません。まず私たちが自分の中の価値観や感受性、美しいと感じる心を培ってゆく必要があるのです。古典的な書物を読書するとか、優れた絵画や音楽、映像などの芸術作品に触れるとか、大自然の美に触れるとか、世界中を旅して人々との出会いをするとか、私たちには自分自身を豊かにしてゆくホンモノとの出会い、ホンモノの感動体験がどうしても必要になります。相田みつを氏に「一生燃焼、一生感動、一生不悟という言葉がありますが、ホンモノとの出会いが私たちの魂を感動させ、私たちの美的感性を覚醒させ、私たちの思考の枠組みや世界を把握してゆく思想の物差しを拡げてゆくのです。

 私たちは子どもの頃は毎朝目が覚めるのが楽しみであったように思います。今日はどんなワクワクする体験が待っているか起きるのが楽しみでした。夏休みなどは特にそうでしたね。いつの頃からでしょうか、日々が色あせ、感動するということが少なくなってきたのは。成長するということは感動体験が乏しくなるということなのでしょうか。否、決してそうではありません。歳を取っても豊かな感性をもって輝いて生きている人々は私たちの周囲に大勢おられるからです。そのような人に共通しているものは何か。それは「根拠のない自信」であると私は思います。

 

「根拠のない自信」

 3年ほど前に放映された朝のNHKテレビ小説の『花子とアン』の中である時に「根拠のない自信」という言葉を耳にしました。それは『赤毛のアン』を訳したクリスチャンの翻訳者・村岡花子を主人公とするドラマでした。「根拠のない自信」とは、彼女の母校であった東洋英和女学院(花子の母校)で長く言い伝えられてきた表現のようです。一度私自身がそこでのクリスマス礼拝に招かれた時にも、あるお母さんから「私たちの子供は皆この学校が大好きなのです。この学校は子供たちの中にいっぱい愛を注ぐことを通して根拠のない自信を育ててくれたからです」という言葉を聞きました。そういえばルーテル神大にも東洋英和出身の学生がいて、彼女はいつも「自分には根拠のない自信があるのよ」と誇らしげに語っていたことを思い出します。東洋英和に限らず、学校や家庭というものは子供たちの中に「根拠のない自信」を育むという使命を持つものなのかもしれません。「根拠のない自信」を持つ者には「迷い」がありません。いや、たとえ「迷い」があったとしても、その「自信」のゆえに周囲を巻き込みながらも逆境を乗り越えてゆくことができるのだと思います。自分が愛されてきたことの中に育まれた「自尊感情」がその人の中にある「レジリエンス(回復力 復元力)」を支えているのです。いかにも逆境に強かった故小泉潤牧師の生き方をも思い起こします。ふだんの日常生活ではあまり見えてこないのですが、いざという時には私たちが持つ「根拠のない自信」が大きく事を左右するように思います。

 2011年の4月に、東日本大震災の直後でしたが、『こどもへのまなざし』で著名なクリスチャン児童精神科医の佐々木正美先生(川崎医大名誉教授)をむさしの教会にお招きしたことがありました。佐々木先生はその時に子供たちの内に「根拠のない自信」を育むことの大切さを語られたのです。そのために「子供たちに溢れるほどの愛情を注いで、大いに甘やかせてあげて欲しい」と言われました。人を愛するためにはまず自分が人に愛されるという体験がどうしても必要とであり、愛されることを通して子供たちの中に「根拠のない自信」が育まれてゆくのだと。そして先生は続けられました。「私たちは普通『根拠のある自信』を持っています。しかし『根拠のある自信』はその根拠が揺れ動くとガラガラと崩れてしまう。けれども『根拠のない自信』は根拠がないがゆえに決して揺れ動くことがないのです」。その実践に裏打ちされた温かい言葉は今でも私の中で一つの確かな声として響いています。(昨夜、佐々木先生は四日前の628日に81歳で天の召しを受けられたことをインターネットで通して知りました。合掌)

 「根拠のない自信」というのは逆説的な言い方ですが、そこにはやはり「根拠」があると私は思っています。そもそも「自信」とは「自分への信頼」を意味しますが、その「自信」の「根拠」は自分の「内」にはないのです。それは自分の「外」にあって、それが「外」から「私」を支えているということです。そこでの「自信」とは「自分を支えているものに対する信頼」という意味です。「根拠のない自信」とは、自らの外に自分を支える「確固とした足場・基盤」を持つということなのです。万物は揺らぐとも神からのI Love Youという言葉は永久に立つ。神の愛が私を捉え、決して離さない。自己を支える神の愛という足場を持つことができる者は幸いと言わねばなりません。

 

ありのままに相手を受容する者は天における「報い」(=大きな祝福)を得る

 イエスは言われました。「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである」。無条件にありのままの自己を神によって受容された体験を持つ者は、「根拠のない自信」をもって自分と向かい合う他者に接することができる。ありのままで他者を受容することができるのです。そのような者は天において大きな「報い」を約束されています。いや、そのような人は既にこの地上においても「報い」を受けているのだと思います。豊かに祝福されているからです。恵まれた出会い自体が神の祝福でありましょう。私たち自身もまたそのような出会いの祝福をもって互いに受容し、祝福し合うように招かれていると信じます。

 その独り子を賜るほど豊かに私たちに愛を注いで、私たちの中に「根拠のない自信」を育んでくださるお方(神)を見上げて、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。お一人おひとりの上に天からの豊かな守りと導きと祝福とがありますようにお祈りいたします。 アーメン。

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