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2017年6月 8日 (木)

2017年6月4日(日)聖霊降臨日礼拝説教「聖霊の息吹き」

201764日(日)聖霊降臨日礼拝 説教 「聖霊の息吹き」      大柴 譲治

使徒言行録 2: 1〜21

1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。(1-4節)

 

聖霊降臨日に起きた出来事

 本日は教会暦では「聖霊降臨日(ペンテコステ)」。教会暦では「復活日(イースター)」、「降誕日(クリスマス)」に次ぐ三大祝祭日の一つです。先週私たちは「主の昇天主日」を守りました。復活後40日に渡って復活した姿を弟子たちに示されたイエスが、弟子たちの見ている前で天に上げられた昇天の出来事を覚えたのです。それ以降、直接的にはイエスの姿は弟子たちの肉眼には見えなくなりました。そしてちょうど昇天から10日経った日、復活日から数えるとちょうど50日目の日曜日のことでした。弟子たちが一つのところに集まっていると聖霊降臨の出来事が起こります。「ペンテコステ」とはギリシア語で50を意味します。復活が日曜日に起こり、聖霊降臨日も日曜日に起こったので、それまではユダヤ教の「安息日(第七の日)」である「土曜日」に集っていたキリスト者たちは、週の終わりの日ではなくて週の初めの日である「日曜日」「主日」として礼拝を守るようになって行きます。

 そこで起こったことについてルカは次のように簡潔に告げています。「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:1-4)。何度聞いてもとても不思議な光景です。神の聖霊そのものは、風が私たちの眼には見えないのと同様に、眼には見えないはずであるのに、ここでは「突風のような大音響」「炎のような舌」として描かれています。耳に聞こえ、肌に感じ、目に見えるかたちで記録されている。人間が五感を通して聖霊の存在を感じ取ることが出来るように描かれているのです。そしてそこで起こったことは、「一同が聖霊に満たされて、その神からのが語らせるままに、ほかの様々な国々の言葉で話し出した」ということでした。この出来事に大きな物音に集まってきたエルサレムにいた人々は驚きに満たされ、あっけにとられます。信じられないことにガリラヤ人(その多くは漁師でした)たちが「自分たちの生まれ故郷の言語」で話していたからです。それがどのような言語であったかもリアルに記されています。「人々は驚き怪しんで言った。『話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは』。人々は皆驚き、とまどい、『いったい、これはどういうことなのか』と互いに言った」。福音書記者ルカの文筆家としての無駄のない的確な筆致はさすがです。

 彼らは何を語り出したのか。それは一つの出来事でした。14節から以降に記録されているペトロの説教に明らかです。それは、旧約聖書ヨエル書(本日の第一日課)の預言の成就であり、神がイエス・キリストの救いの出来事であり、一言で言えば「イエス・キリストの福音」です。彼らは聖霊に満たされてキリストの福音を、それを聴く人々の魂に響く言葉、こころに届く言葉で語り始めたのです。「魂に響く」「こころに届く」という点が大切です。

 

「聖霊言行録(行伝)」としての「使徒言行録(行伝)」

 私が三鷹のルーテル神学校で学んでいた時、新約学教授の間垣洋助先生が『使徒言行録』(当時は口語訳聖書でしたので『使徒行伝』と呼んでいました)について授業で語られた言葉が今でも私の心に強く刻まれています。間垣先生はこう言われました。「ルカが記した『使徒行伝』には前半はペテロ、後半はパウロの働きが書かれています。しかしその真の主人公はペテロでもパウロでもありません。神の聖霊です。聖霊が彼らを捉えて使徒とし、福音宣教者として派遣していった。だから『使徒行伝』は『聖霊行伝』と呼ぶべき書物です。そして、『使徒行伝』は28章で終わっていますが、聖書は閉じられたかたちで完結しているわけではありません。その29章以降は、皆さん一人ひとりの人生を通して神の聖霊がそこに書き加えてゆくのです」と。確かにその通りです。神の聖霊は、聖霊降臨日以降、二千年に渡って人々の中にキリストの福音を信じる心を呼び覚ましてきました。そのことはキリスト教の歴史が証ししています。二千年続いた「カトリック教会」の歴史を見ても、500年続いた「宗教改革の教会/プロテスタント教会」の歴史を見ても、また百年続いたこの「ルーテル大阪教会」の歴史を見ても、さらには私たち自身の人生の歩みを見ても、そこには確かに聖霊が生きて働いてきたと申し上げることが出来ましょう。使徒言行録の29章以降が二千年に渡って書き続けられてきたし、今も書き続けられているし、今後も「終りの日」まで書き続けられてゆくのです。

 私は以前にどこかで「会社など人間が始めることは三世代、だいたい70年ぐらいの長さで終わってゆく」と聞いたことがあります。時代が変わってゆくということもあるのでしょうが、親が始めたことが子に受け継がれ、そして孫の時代まで続いて終了してゆくというのです。なるほどと思いました。しかしそのスパンから考えるとキリスト教会がしてきたことはすごいと思います。人知や人の力を越えている。そこには愛の聖霊が働いているとしか言うことができません。宗教に限らず、芸術や思想、文化なども、それが真実なものであれば残り続けてゆくのだと思います。

 

聖霊の息吹きに満たされて

 私たちが神の聖霊に満たされる時に何が起こるか。そこには、「特別の祈り」で祈ったように、言語や文化・習慣の違いや、歴史や思想的立場の違いを超えて、キリストの福音が全世界共通語として私たちの心を愛の中に一つに結び合わせてゆくということが起こります。ペンテコステに起こったことは、創世記12章にある「バベルの塔」と真逆の、正反対の出来亊でした。バベルの塔の出来事では、それまで人間が一つの言葉で話していた時代に、天にまで届くような塔を作ろうとした人間、神のようになろうとした人間が神の怒りに触れて言葉が通じなくなり、全地に散らされていったことが記録されています。言葉が乱されたというのは、互いに心が通じ合わなくなったということでしょう。それに対してペンテコステの出来事では、多くの言葉で語られたイエス・キリストの福音が、様々な違いを超えて、人々の心を結び合わせ、通わせて、一つの群れにしていったということです。

 昨夕この教会で「第11回のペンテコステ・ヴィジル」が行われました。「ヴィジル」というのは「前夕の祈り」と訳されますが、本来は「世を徹して行う徹夜祈祷」のことを意味します。カトリック教会、聖公会、ルーテル、日本基督教団や他の教派から90名ほどの参加がありました。11年前からこの大阪で始められたエキュメニカル(超教派的)な働きです。それは、目に見えるかたちで連帯と一致を目指す共同の働きであり、聖霊の働きでもありましょう。亡くなられた小泉潤牧師がよく語っておられたように、「弟子たちが一つに集まっていたところに聖霊が降る」のです。私たちが一つところに集まること、集められることこそ大切なのです。イエスが「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20と言われたように、私たちが毎週主日礼拝に集うのも、聖研や集会に集うのも、そこに神のいのちの息吹きが注がれ、主イエスが臨在しておられることを共に知ることができるからです。

 風そのものが眼には見えないように、聖霊そのものも私たちの眼には見えません。しかし、風が吹くと何かが動かされるのと同様に、神の聖霊(==息吹き)が吹くときにはそこで何かが動かされるのです。私たちの中の何かが、社会の中の何かが、世界の中の何かが愛なる神の聖霊の息吹きによって変えられてゆく。私たちのこころとこころ、魂と魂とが結び合わされ、互いに通い合うものとされて行く。ご一緒にその風にすべてを委ね、身を任せてゆきたいと思います。お一人おひとりの上に神の聖霊による豊かな祝福をお祈りいたします。アーメン。

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