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2017年6月29日 (木)

2017年6月25日(日)聖霊降臨後第3主日礼拝説教「だから、恐れるな」

2017625日(日)聖霊降臨後第3主日礼拝説教「だから、恐れるな」 大柴 譲治

マタイによる福音書10:24〜39

「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(28節)

 

迫害下にあった初代教会 〜 「人々を恐れてはならない」

 本日の福音書の日課にはイエスの四つの教えが並べられています。「迫害を予告する」「恐るべき者」「イエスの仲間であると言い表す」「平和でなく剣を」という四つの小見出しが着いています。イエスと出会い、イエスを主と信じ、イエスに従った初代教会の群れが厳しい迫害の中に置かれていたことを伝える箇所でもあります。初代教会の信者たちは、イエスの言葉を信じ、信仰を文字通り命がけで守り抜いていったのでした。本日はその中でも特に二番目の部分、26節から31節、「人々を恐れてはならない」に焦点を当ててみ言葉に聴いてまいりたいと思います。

 与えられたマタイ10:26-31をもう一度読んでおきましょう。ここでイエスは三度繰り返して「恐れるな」と命じています。①26節の「人々を恐れてはならない」、②28節前半の「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな」、③31節の「だから、恐れるな」の三回です。そして④28節の後半には「恐れなさい」と一度だけ命じられています。「むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」と告げられているのです。「あなたがたを迫害しようとする人間を恐れてはならない。本当に恐るべきお方はただお一人。魂も身体も地獄で滅ぼすことのおできになる方、即ち神を恐れなさい。まことの神があなたがたと共にあり、あなたがたを最後まで守り抜く」とイエスは告げておられるのです。

 この箇所を読むと私は即座にいくつかの聖句を思い起こします。たとえばヨハネ黙示録2章の、スミルナの教会に宛てた手紙の言葉を思い起こします。ヨハネ黙示録は初代教会が厳しい迫害下にある中で終りの日の預言として書かれました。そこにはこうあります。「あなたは受けようとしている苦難を決して恐れてはならない。見よ、悪魔が試みるために、あなたがたの何人かを牢に投げ込もうとしている。あなたがたは、十日の間苦しめられるであろう。死に至るまで忠実であれ。そうすれば、あなたに命の冠を授けよう」(2:10)。また、マタイ5章にある山上の説教の冒頭部分にも次のようなイエスの言葉があります。「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである」(マタイ5:10-12)。

 マタイが繰り返し強調した「インマヌエル(神がわれらと共におられる)」という事実は、私たちを支える根源的な事実という意味で私はそれを「原事実」と呼びたいのですが、迫害にある初代教会の信仰者たちを深く慰め、支え、希望を与えた言葉だったのでした。「福音」とは「喜びのおとずれ」であり、その基調音は「恐れやおののき」ではなく、どこまでも「喜び」だったのです。

 

「私たちの生存を脅かす敵」としての生と死

 私たちは自分が基本的には無力であり傷つきやすい儚い存在であることを知っています。「恐れ」ということを考える場合、様々な次元で捉えることが出来るでしょうが、私たちが何を恐れて生きているかといえば、基本的には自分が傷つくこと、傷つけられることであると言うことができましょう。生存が脅かされること、命を失うことを私たちは「生物」として本能的に恐れています。病気や事故、災害などで、健康を失うことを恐れています。私たちは「生命体」としてDNAレベルにおいてサバイバル、生き残るために全力を尽くすよう定められているからでしょう。

 私たち人間が「死への恐れ」と共に「生への恐れ」「生きることに対する恐れ」をも持っていると洞察したのはフロイトでした。この世界は弱肉強食の生存競争が支配していますが、明日がどうなるか分からないようなこの世の現実の中で生き延びてゆくということは確かに考えてみれば大きな恐怖でもあります。この世界には、人間の善意という次元もありますが、同時にそれよりもはるかに力強いようなかたちで悪意に満ちた次元が存在しています。最近インターネットを通してあるリサーチを読んだのですが、このインターネットの時代に一番拡散・拡大している言葉を調べてみると、それは「喜び」ではなく「怒り」に関する言葉だということでした。「怒り」が伝染病のように世界中に拡散しているように見えるというのです。確かにそうかもしれません。私自身は、私たち人間が持っている様々な感情には、良し悪しではなく、それぞれ生存のための大切な役割(意義)があるだろうと考えていますから、「怒り」には「怒り」の存在意味があり意義がある。それは私たちが「闘うべき敵と向かい合うための感情」です。自らの力をパワーアップするための感情です。「怒り」の感情が拡散しているということは、私たちがこれまで以上に自己防衛的になっているということを意味しましょうし、私たちの生存を脅かす見えない脅威に対する「不安と恐れ」が支配的になっているということがあるのだろうと思います。フロイトが言うように、私たちは心の奥底に「死への恐れ」と共に「生への恐れ」を持って生きています。より根源的な次元で私たちは、キルケゴールが正しく洞察したように、恐れとおののきの中に置かれているのです。

 

「だから、恐れるな」〜「明日世界が滅ぶとも、わたしは今日リンゴの木を植える」(ルター)

 本日イエスは告げています。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい」「身体」が殺されることではなく「魂」が殺されることを恐れなさいとイエスは言うのです。身体が殺されても、魂は殺されないという死の次元がある。私たちの身体も魂も、生も死も、すべては神の御手のうちに置かれているのです。イエスは続けます。二羽の雀が一アサリオン1/16デナリオン。現在の貨幣価値から言えば500円ほどか)で売られているではないか。だが、その一羽さえ、あなたがたの父のお許しがなければ、地に落ちることはない。あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。だから、恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(29-31節)。髪の毛の数を含めて、天の父なる神は私たちのすべてを知っておられるのです。

 私たちは各自が置かれた場で、神からのコールに応じて、神を恐れ、神に畏敬の念を持ちながら、自分を捨て、自分自身の十字架を担ってキリストに従ってゆくことが求められています。生きることはなかなかしんどいことであり、思わぬ辛いこと、悲しいことや苦しいことがたくさん起こります。愛する者が病いに倒れ、看病の甲斐もなく若くして、幼い子ともたちを残して、無念の中に命を終えて行かなければならないということもありましょう。突然の事故や災害、テロや迫害の中で愛する者の命を奪われるということもありましょう。生きることは不条理に満ちています。

 そのような過酷なこの世の現実を前にして、私にはいつも思い起こすルターの言葉があります。それは「たとえ明日世界が滅ぶとも、今日わたしはリンゴの木を植える」という言葉です。もしかしたらこれはルターが語った真実の言葉ではないのかも知れません。どんなに調べても出典が分からないのです。しかし神のみ言に徹底して信頼し続けた宗教改革者マルティン・ルターの、大変にルターらしい言葉でもあると私は思っています。神を信じる信仰を与えられるということは、苦しまなくなることではありません。悲しまなくなることでもない。苦しみや悲しみや絶望は、この世の生を生きる限り依然として私たちを襲うことでしょう。しかし、そのような苦難の中で、私たちはキリストと共に生きるのです。十字架に死んで、死してよみがえられたお方と共にその重荷を担い続けるのです。この世の生は確かに恐れとおののきに満ちています。明日どうなるか分からないし、私自身も明日までの命かも知れない。しかし、たとえ明日世界が滅ぼうとも、自分が明日までの命であるとしても、私たちは知っているのです。本当の明日というものは、本当の希望というものは、永遠なる神の中にあるということを。「明日」とは漢字で「明るい日」と書きますが、本当の明るい明日は、たとえ世界が明日滅びようとも、その向こう側におられる神の中にあるのです。だからたとえ明日世界が終わろうとも、本当の明日に向かって、今日私たちは各自に神から与えられたリンゴの木を植えるという務めに従事することができるのです。神は世界の滅びを越えて、私たちをその永遠の救いの御業のために用いてくださるのです。ですから私たちは、どのような状況の中にあってもそれを恐れることなく、神のみを見上げ、神のみを畏れて、歩むことができる。なぜなら、「インマヌエル、神がキリストにおいてわれらと共にいます」からです。体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。というイエスのみ言葉は、身体と魂を含め、私たちのいのちに責任を持って下さるお方に対する信頼がすべてであり、その幸いへと私たちを招いています。ただ神のみを見上げて、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。お一人おひとりの上に上よりの豊かな守りと導きと祝福とがありますようにお祈りいたします。

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