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2017年6月18日 (日)

2017年6月18日(日)聖霊降臨後第2主日礼拝説教「断腸の思い」

2017618日(日)聖霊降臨後第2主日礼拝 説教「断腸の思い」     大柴 譲治

マタイによる福音書 9:3510:8

35 イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。 36 また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた37 そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。 38 だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

 

「イエス断腸」

 本日から教会暦では「聖霊降臨後の主日」が始まりました。典礼色は神の栄光を表す「白」(昇天主日)→聖霊の炎の色である「赤」(聖霊降臨日)→「白」(三位一体主日)とこの三週間で毎週目まぐるしく変わりましたが、本日からは信仰の成長を表す「緑」。主イエスの教えに焦点を当ててみ言葉に聴いてゆく教会歴の後半が始まりました。今年はマタイ福音書を中心にみ言葉に聴いてゆく一年です。本日の福音の日課としては9章の終わりと10章の最初の部分が与えられています。そこには、イエスが町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒したとあります。それは、「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆」に対しての「深い憐れみの御業」であったと記されている。主は常にそのように私たちに関わって下さるのです。

 佐藤研訳の聖書(『新約聖書翻訳委員会訳』、岩波書店、1995)によると、マタイ9:35-38には「イエス断腸」という小見出しが付いていて、36節はこうなっています。「さて、彼は群衆を見て、彼らに対して腸(はらわた)がちぎれる想いに駆られた。なぜならば、彼らは牧人のない羊のように疲れ果て、打ち捨てられていたからである。」これはなかなか味わい深い訳だと思います。実は「深い憐れみ」と訳されている言葉は「スプランクニゾマイ」というギリシャ語ですが、それは「内蔵、はらわた」を意味するのです。ですから「憐れみ」よりも「はらわたがちぎれる想い」「断腸の思い」という訳の方がふさわしいと思います。岩波訳では脚注でこう説明されています。「内蔵は人間の感情の座であると見なされていたため、同語は『憐れみ、愛』などの意に転化、それが動詞化した」

 カトリックの神父で聖書学者の雨宮慧先生はこの言葉を次のように説明しています。「聖書でのはらわたは愛情やあわれみの情がうごめく臓器です。はらわたが活気づけば喜びが心に生じますが、逆に狭くなったり閉じたりすれば同情を欠き、他人に無関心になります。わたしたちのはらわたは、狭くなったり閉じたりしますが、決してそうならないはらわたがあります。それは神やイエスのはらわたです。この動詞は新約聖書ではイエスに使われる場合がほとんどです。イエス以外に『あわれに思う』人物と言えば、たとえ話に登場する三人の人物、つまり一万タラントンの借金を帳消しにした『主人』と、『善いサマリア人』と、放蕩息子の『父親』です。これらの人物はいずれも神を表しているとも言えます。この動詞の用例が神やイエスに限定されるのは、理由のないことではありません。人間は同情しても事態を変えることはできませんが、神やイエスにはそれができます。ですから『あわれに思った』イエスは病を患っている人を清め、目の見えない人をいやし、やもめの一人息子をよみがえらせ、食べ物のない群衆のためにパンと魚を振る舞います。放蕩息子を『あわれに思う』父親は、息子として彼を受け入れ、新たな命を与えます。わたしたちが神のもとに戻るとき、神のはらわたは喜びにふるえ、わたしたちを子どもとして受け入れます。」(『小石のひびき』、女子パウロ会、1999

 

「我がはらわた痛む」(エレミヤ31:20

 『神の痛みの神学』で有名な熊本のルーテル教会出身の北森嘉蔵先生は、「我がはらわた痛む」(エレミヤ31:20というところからこの「神のはらわた痛む愛」「神の痛み」と表現しました。「愛(アガペー)」という語よりこの「はらわた痛むほどの深い憐れみ」という語の方が私たちにより直接的にインパクトをもって迫ってくるように感じます。私たちは心配事があるとよく胃が痛んだりお腹の調子が悪くなったりしますが、主の深い憐れみとは「はらわたが痛むほどの深い思い」であり「断腸の思い」なのです。イエスは「飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている群衆」一人ひとりのことを、その「羊飼い」のように深く心に留め、その「はらわた」をもって受け止め顧みられたということを示しています。旧約聖書では神の憐れみ深いことを「ラハミーム」という語を用いていますが、それは「ラハム」(「子宮」)というヘブライ語の複数形です。「内蔵(はらわた)」「子宮」も私たちの身体の中心に、最も奥深いところにある臓器です。人々の苦しみや悲しみをイエスはご自身の存在の中心で受け止められ、慟哭されたのです。ゲッセマネの園でのイエスの苦しみもだえるように祈る姿はその最たるものでした。その深い憐れみのゆえにイエスは群衆に近づき、そのただ中で神の国の福音を宣べ伝え、人々の病いや煩いを癒されました。神はイエスを通して、マタイ福音書が強調する言葉を使うならば「インマヌエル」、「いつどこででも、世の終わりまで、神は私たちと共におられる」という神の恵みの事実を宣言したのでした。

 イエスはそこで弟子たちに言われます。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」(37b-38節)。天の父なる神がその豊かな収穫のために働き人を起こし、派遣して下さるというのです。収穫の主である天の神に祈り求めることが私たちに求められています。

 マタイ10章ではイエスが十二人の弟子を呼び寄せ、「汚れた霊を追い出し、あらゆる病気や患いをいやすため」「汚れた霊に対する権能」をお授けになったことが、12弟子の名前と共に記されています。イエスも12弟子たちも、ユダヤ教のシナゴーグと呼ばれる「会堂で神の国の福音を宣教し」、②人々がそれによって苦しめられ、非人間化されている「ありとあらゆる病気や患いをいやす」という二つの主なる働きに携わっています。弟子たちもそのイエスの働きを継承するために立てられて派遣されてゆくのです。そして私たち自身もまた主の憐れみの働き人として立てられています。それは私たちが先ほど「特別の祈り」で祈った通りです。「全能の神、あなたは権威をもってみ国の到来を告げ、教えるために、み子を遣わされました。悩む人によい知らせを、悲しむ人に慰めを、囚われている人に自由を伝えるために、み霊の力を注いで下さい」。このような祈りを通して、神の聖霊が私たちを捉えて力を注ぎ、私たちをこの世界に派遣してゆかれるのです。「イエス断腸」の働きは今もこの地上に継続されています。

 

聖路加国際病院での臨床牧会訓練(CPE)での体験

 私がまだ神学生であった頃、1985年の秋のことでした。ルーテルの神学生たちは当時、聖公会神学院や日基教団の農村伝道神学校の神学生たちと共に、東京の築地にある聖公会の聖路加国際病院で三週間の「臨床牧会訓練(Clinical Pastoral Education/CPE)」と呼ばれる集中病院実習を受けることが定められていました。この「スプランクニゾマイ」という事に関して私には忘れられない一つのエピソードがあります。当時のチャプレンであった聖公会の井原泰男司祭がある時にこう言いました。「ボクは患者さんたちの話を聞いていて、患者さんが一番言いたいところになると胃がビクビクと動くんだよね」。私はその言葉に、えっ!? はらわたで相手の気持ちを受け取る? そんなことができるの?!」と驚きました。これこそ「スプランクニゾマイ」ではないですか。私にとってこれは一つの啓示とも言うべき出来事でした。それ以降、私は深いところでそこにこだわり続けてきました。私は牧師として様々な方の苦しみや悲しみの現実に立ち会うことが少なくありませんが、主イエスがはらわたがちぎれるほどに深い痛みをもって「牧人のない羊のように疲れ果て、打ち捨てられていた群衆を深く憐れんでくださったか」ということの意味をしばしば考えさせられます。その時に私は井原先生の「胃がビクビク動く」という言葉を必ず思い起こすのです。キリストが私たちの悲しみ、痛みをご自身の存在の中心(はらわた)でもって受け止め、共に背負ってくださる! だから私たちはそのお方にすべてを委ねてゆけばよいし、それだけでよいのです。人生の苦しみや悲しみの前で私たち人間は確かに無力です。ただ弱り果て、打ちひしがれて沈黙する以外にはない。そのような厳しい現実の中に私たちは置かれている。しかしそのような私たちの現実のただ中に主は近づいてこられ、真の羊飼い(飼い主)として立ち、ご自身の深い愛と憐れみとを豊かに注いで下さいます。インマヌエルの神が私たちと共にいてくださる。この溢れるほど強い主の憐れみの力が私たちを造り変えるのです。その憐れみと愛に触れた時、私たちは心の目が開かれ、新たに変えられてゆきます。そのようなお方の深い憐れみに思いを馳せながら、ご一緒に新しい一週間を踏み出してゆきたいと思います。お一人おひとりの上に祝福が豊かにありますように。アーメン。

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