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2017年6月17日 (土)

2017年6月11日(日)三位一体主日礼拝説教「父、子、聖霊の神」

2017611日(日)三位一体主日礼拝 説教「父、子、聖霊の神」  大柴 譲治

創世記 1:3

神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。

 

マタイによる福音書 28:10〜20

18イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。19だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、20あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

三位一体主日にあたって

 本日は教会暦では「三位一体主日」。私たちは先週「聖霊降臨日(ペンテコステ)」を守りましたが、ペンテコステの次の日曜日は毎年「三位一体主日」として守られます。その名称が示しているとおり、本日は「三位一体」というキリスト教の教理について覚える主日であり、一年に52週ある日曜日の中で唯一、キリスト教の教理について覚える日なのです。典礼色は神の栄光を顕す「白」。先週は聖霊の命を表す「赤」が用いられました。来週からの約半年間は「聖霊降臨後の主日」として、典礼色は信仰の成長を意味する「緑」が用いられてゆきます。クリスマスの四週間前のアドベント(待降節)から始まった教会暦は、その前半は「アドベント」→「クリスマス」→「顕現日」→「四旬節(レント)」→「受難週・受苦日」→「復活日(イースター)」→「主の昇天日」→「聖霊降臨日(ペンテコステ)」「キリストの生涯」について学びを深めてきましたが、本日の三位一体主日を境として今度は「キリストの教え」についてみ言葉に聴いてゆく日曜日が始まってゆくのです。キリストの教えに耳を傾けるためにも、父と子と聖霊なる三位一体の神について私たちが心に刻む主日が本日与えられています。父なる神、御子なる神、聖霊なる神がおられるけれども、神が三人おられるわけではない。神はただお一人で、その一人の神が三つのペルソナ(それは「仮面」という意味のラテン語ですが、位格・役割・姿をも意味します)を持って私たちにご自身を啓示されているのです。三つで一つ、一つで三つというのは私たち人間の理性的な理解を越えていますが、教会は私たちはこのように信じますと告白してきたのです。そして三位一体の神の聖名によって礼拝を招集し、三位一体の神の聖名において洗礼を施し、神の聖名によって主を信じる者たちを全世界に向かって派遣してきたのです。主日礼拝も「父と子と聖霊のみ名によって」という言葉に始まり、「父と子と聖霊のみ名によって」という言葉によって終わります。

 

復活の主の大宣教命令

 本日、三位一体主日に与えられている福音書の日課はマタイ28章の最後の部分で、復活のキリストによる「大宣教命令」と呼ばれる部分です。イエスは、近寄って来て言われた。『わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。』」(マタイ28:18-20

ここで復活の主は、「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」と告げておられます。マタイ福音書は、「インマヌエル(神われらと共にいます)」ということを福音書全体を通して繰り返し強調してきました。1章の終わりに天使がヨセフに夢の中で表れて次のように告げます。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」。そしてマタイはイザヤ書の預言(イザヤ7:14)を引用するのです。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(同22-23節)。その名はインマヌエル! 復活のキリストが弟子たちに「全世界に出て行って、父と子と聖霊のみ名によって洗礼を授けなさい」と命じた時にも、「わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」と告げておられます。このインマヌエルという事実、「父と子と聖霊」という三位一体の神が世の終りまで私たちと常に共にいてくださるという神の恵みの事実は、私たちを支える根源的な事実(「原事実」)として、いついかなる時においても、またいついかなる場所においても、決して揺るぐことはないとマタイは宣言しています。私たちは「洗礼と聖餐」という「サクラメント」を通してその恵みを味わい続けることができるのです。神の恵みが私たちを捉えて離さないのだということを主は私たちが受け止め続けることができるように「サクラメント」(「聖礼典」とも「秘跡」とも呼ばれますが)を与えて下さいました。

 

「『光あれ。』こうして、光があった。」

 本日の第一日課は創世記の冒頭部分です。そこでは神が「光あれ」という第一声をもって天地創造を開始されたということが記されています。ここを読むたびに私はハッとさせられます。闇と混沌の中で神の声が最初に響き渡る。「光あれ!」「すると、光があった」「光あれ」という声、言葉によって私たちはそのイメージを心の中に点されます。何と言葉とは不思議なものでありましょう。「光」と告げられると私たちは「光」を意識し始める。バッハが作曲したカンタータの中に「目覚めよと呼ばわる者の声が聞こえ」というものがありますが、私たちがいつも目覚めるときには自らの意識がボンヤリと戻ります。それはちょうど向こう側から「目覚めよ」と呼びかけられるのと同じ状況です。意識しておりませんが、私たちは言葉を声として受け止めています。「声」は「言葉」を乗せる「器」であり「車」です。黙って一人で本を読んでいる時にも、沈思黙考している時にも、私たちの頭の中には声が響いています。「目が覚める」ということは、向こう側からの「起きよ」という声によって起こされるのと同じことなのです。バッハはそのことを正しく表現しました。「光あれ」という天からの声は私たちの眠っていた意識を呼び覚まし、光に向けて私たちを覚醒させてくれるのです。神の言、神の声にはそのような覚醒力、創造力が宿っています。その力にハッとするのです。宗教改革500年を記念するルターのバナーには「初めに言があった」というヨハネ福音書の言葉がありますが、聖書は私たちに呼びかけてくる太初の声の存在を告げています。この「声」の中に私たちを生かす希望の光がある。この光の中に私たちは創造され生かされている。神との人格的な呼応関係に生きるよう私たちが最初から造られていること、それを聖書は人間が「神のかたち」に造られていると告げているのです。

 

鈴木大拙のエピソード〜「無」の向こう側から屆けられるもの

 「向こう側から呼びかけてくる声」ということで私にはいつも思い起こすエピソードがあります。それは禅仏教の大家として世界的にも知られている鈴木大拙(だいせつ)のエピソードです。私は学生時代北陸の古都・金沢で過ごしました。金沢は「旧制四校」があったところで、『善の研究』でよく知られた哲学者の西田幾多郎と禅仏教学者の鈴木大拙が同じ年(1870年)に生まれ育った土地でもあります。後に神学生の時、三鷹のルーテル神学校で仏教とキリスト教についての講演会があり、鈴木大拙先生の高弟であった加藤智見というお坊さまから伺った話です。

 鈴木大拙は毎晩寝る時には枕元に電気スタンドと神と鉛筆を用意して寝たそうです。そして寝ていても何かがパッと閃くと、ガバッと起きてスタンドを点け、紙と鉛筆を取ってそこにサラサラと書き付けたのだそうです。書き終わるとまた電気を消して床につきました。そんなことが夜の間に何度かあって、朝になると枕元には文字が書かれた紙がたまっていて、それがそのまま印刷に回されて本として出版されていったのだそうです。そのことについて大拙はこう語られたと伺いました。「私は何もしていない。ただ向こう側から届くものを自分は書き留めているにすぎない」と。一度聞いたら忘れられないような羨ましくも印象的なエピソードです。しかし考えてみれば私たちも毎朝、目醒めよと呼ばわる者の声によって起きているという意味では、同じなのかもしれません。

 「光あれ」という声を闇の中に響かせることを通して三位一体の神はその創造のみ業を始められました。私たちもまた向こう側から響いてくるお方の声に耳を澄ませてゆきたいと思います。インマヌエル、神われらと共にいます!このお方に信頼して新しい一週間をも踏み出してゆきたいと思います。お一人おひとりの上に祝福をお祈りします。

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