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2017年6月 2日 (金)

2017年5月28日(日)主の昇天主日礼拝説教「天からの祝福」

2017528日(日) 主の昇天主日礼拝 説教 「天からの祝福」   大柴 譲治

エフェソの信徒への手紙1:15〜23

 「教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です。」(23節)

ルカによる福音書 24:44〜53

 「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(50-53節)

 

昇天の主は天国で何をしておられるか

 本日は教会暦では「主の昇天主日」。復活後40日に渡ってご自身の姿を弟子たちに示された復活の主イエスが、弟子たちの見ている前で天に上げられた出来事を覚える主日です。そこからイエスの姿は弟子たちの眼には見えなくなりました。そして10日が経って、弟子たちが一つのところに集まっていると聖霊降臨の出来事が起こります。復活日から数えるとちょうど50日のことでした。来週が聖霊降臨日となります。その前日の土曜日の夕には、この大阪教会でカトリックと聖公会、日本基督教団、日本福音ルーテル教会が集まり、「ペンテコステ・ヴィジル(聖霊降臨日の前夕の祈り)」が行われることになっています(後援:大阪キリスト教連合)。本日は、主の昇天の出来事が私たちにとってどのような意味を持っているか思い巡らしながら、聖書に耳を傾けてまいりたいと思います。

 最初に一つ質問です。イエスはある時に「誰でも幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない」(マタイ18:3)と言われましたが、幼子に戻ったつもりでお答えいただきたいと思います。イエスは天国で何をしておられるのでしょうか。ヒントは本日の福音書の日課です。ルカ24:50-51には次のようにありました。

 

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた

 

 そうです。「イエスは天国で何をしておられるのか」という問いに対する答えは、「いつも両手を上げて私たちを祝福しておられる」になります。私たちは礼拝の最後に司式者によって「アロンの祝福」(民数記6:24-26)をいただきます。「主があなたを祝福し、あなたを守られます。主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれます。主がみ顔を貴方に向け、あなたに平安を賜ります」。これをいただいて礼拝を終え、それぞれの生活の場に私たちは散らされ派遣されてゆくのです。このことは実は、復活されたキリストが天においても私たちを祝福して下さっている神の恵みの事実に与ること、私たちがその主の天からの祝福に与るということを意味しています。牧師の声を通して天のキリストが神の祝福を宣言しているのです。

 

「祝福の源(基)」としてのアブラハム

 そのことは私たちにアブラハムに対する神の召命を想起させます。主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。』アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った。アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった。」(創世記12:1-4

 神は「祝福の源」であるアブラハムを通して、その「祝福」を人々に分かち合おうとされたのです。神は霊的には「アブラハムの子孫」である私たち「教会」を通して、その「祝福」を多くの人々に分かち合おうとされています。ここには「アブラハムを祝福する者を祝福し、呪う者を呪う」とあり、厳密に言えば「祝福」だけでなく「呪い」も出てきますが、基本的には神は恵み深いお方ですから私たちに「祝福」を与えようとしていると理解できましょう。ルターが小教理問答の十戒にも引用していますが、出エジプト20章にこう通りです。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える」(5b-6節)。ここで新共同訳で「熱情の神」と訳されている語は、長く口語訳聖書では「ねたむ神」(英語では「ジェラシーの神」)と訳されていました。そこでは慈しみが罪とは比較にならないほど「幾千代にも及ぶ」まで豊かに与えられると言うのですから。本日の第二日課、エフェソ書1:23にあった通りです。パウロはこう言います。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」。これは神の平安と祝福とが豊かに満ち満ちている状態を表していましょう。

 

私たちの過酷な現実の上に注がれる天からの祝福

 しかし私たちの現実はどのような現実であるか。それは「祝福された喜びの現実」であるというよりも、むしろ「呪われたような、辛く悲しい現実」であることが多いように思います。私たちの現実を見ると「どこに天からの祝福があるのだろうか」と思わされることの方が多いのです。

 たとえば、この3月末には、大阪教会のすぐ裏に「大阪国際がんセンター」がオープンしました。森ノ宮から移転してきたのです。それによって地下鉄谷町四丁目駅の人の流れが確かに変わりました。この大阪国際がんセンターは高度な治療設備を整え、最先端のがん治療が受けられる病院です。病床は500床。ホームページを見ると、その理念としては「患者の視点に立脚した高度ながん医療の提供と開発」とありました。そして運営の基本方針として次の5つが挙げられていました。①先進医療の開発と実践、患者満足度の徹底追求、教育と情報発信の充実、④医療資源の最大利活用、⑤経営改革へのたゆまぬ努力。

 ですからある意味でこの地域は病気との闘いの場であり、「戦場」とも呼びうる場所であると言ってもよいと思います。しかし同時にここは、どのような困難な現実の中にあっても、決して諦めずにがんとの闘いに挑む「希望の場所」でもあります。このような場所に「私たちの教会」が位置しているということには、大切な意味があると思います。教会を通して、昇天の主は、その祝福の御業を宣言し続けて来ました。人間の現実の困難のただ中にあって「神の祝福の器」「祝福の源」として、私たちはこの地において百年間、福音を宣言し続けて来たのです。その祝福とは、どのような時、どのような状況の中にも「インマヌエル、神われらと共にいます」という神の恵みの現実があるということです。キリストの救いの光が届かない闇の底はどこにもないのです。

 パウロも2コリントの4章でこう言っています。「ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。この並外れて偉大な力が神のものであって、わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。わたしたちは生きている間、絶えずイエスのために死にさらされています、死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるために」(7-11節)。「為()ん方(かた)尽(つ)くれども希望(のぞみ)を失(うしな)わず」です。それはイエスご自身が、あの十字架に架かることを通して、私たちの呪われたような救いのない現実を、神の豊かな祝福の現実へと変えて下さったからです。イエスは人間の罪に対する罰と呪いとをその身に引き受け、代わりにご自身が持っていた神の赦しの祝福を私たちに与えて下さった。それはキリストによる「祝福」「呪い」との「喜ばしき交換」でした。

 今朝も私たちはキリストの食卓に集います。「これはあなたのために与えるわたしのからだ。」「これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言って、パンとブドウ酒をご自身のからだと血として私たちに差し出して下さったキリスト。このキリストの祝福に与ることが私たちのいのちの希望なのです。神われらと共にいます。そのことを覚えて、この新しい一週間をもご一緒に踏み出してまいりましょう。

 お一人おひとりの上に昇天の主の豊かな祝福と恵みとがありますようにお祈りいたします。 アーメン。

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