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2017年5月 8日 (月)

2017年5月7日(日)復活節第4主日礼拝説教「わたしはよい羊飼い(詩編23編)」

201757日(日) 復活節第4主日礼拝 説教「わたしはよい羊飼い(詩編23編)」  大柴 譲治 josihba@mac.com

詩編23/ ヨハネによる福音書 10:1-10

10 わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。11 わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。(ヨハネ10:10b-11

 

主はわたしの羊飼い

1 主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。2 主はわたしを青草の原に休ませ、憩いの水のほとりに伴い、3 魂を生き返らせてくださる。主は御名にふさわしく、わたしを正しい道に導かれる。4 死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。あなたの鞭、あなたの杖、それがわたしを力づける。」

 これは詩編23編からの言葉です(1-4節)。詩編23編は、全部で150編ある詩編の中でも最も有名で、最も愛されてきたものの一つです。皆さまの中でも愛唱聖句とされておられる方も少なくないと思います。この詩編23編が本日の礼拝の主題詩編となっています(各主日の主題詩編は教会手帳に掲載されています)。この詩編を私たちは、私たちの羊飼いである主イエス・キリストに対する徹底した信頼の詩編として受け止めることができます。この羊飼いと羊の信頼関係はどのような中にあっても決して揺らぐことはなく、損なわれることはないのです。主はどのような時にあっても、どのような場所にあっても、私の羊飼いであって、私には何一つ欠けたこと、乏しいことがない。主は私を緑の牧場に伏させ、憩いのみぎわに伴いたもう。主の御名のゆえにわたしの魂を生きかえらせ、常に私を正しい道へと導き給う、のです。人生においてこのような羊飼いを持つことができる者は幸いであると言わなければなりません。人生は山あり谷ありです。順風の時もあれば逆風の時もある。しかしどのような時にも、たとえ苦難の中にあっても、この詩編23編は実に多くの人々を支えてきました。「たとえ死の陰の谷をゆく時も、あなたが共にいますがゆえに、災いを恐れません」と告白することが私たちには許されていることは幸いです。羊飼いが持っている鞭と杖とが、私たちを悪しき敵から守り、どのような時にも私たちを力づけてくれるのです。この羊飼いとの関係は決して揺らぐことがありません。

 この詩編はイスラエルの歴史の中で読まれてきたものでした。神とその神の民との間の強い信頼関係を歌ったものです。作者は浮き沈みの激しいこの人生において神の愛と保護とを確信し、平静そのものであります。

 そして5-6節は次のように歌っています。5 わたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。6 命のある限り、恵みと慈しみはいつもわたしを追う。主の家にわたしは帰り、生涯、そこにとどまるであろう」。ここでは、私たちを待っているであろう「終りの日の祝宴」(終末論的な希望)が指し示されています。このような希望があればこそ、私たちは「艱難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生み出す」とパウロがローマ書5章で告げているように、現実の困難を耐えてゆくことができるのです。

 この詩編は、歴史的に見るならば、旧約聖書につぶさに記されているように、神の民イスラエルの歴史を導いた牧者としてのヤーウェを歌ったものでありましょう。ヤーウェは「その牧の(羊の)群れ」であるイスラエルを、モーセを立てて、「死の影の谷」であるエジプトから導き出し、途中の荒れ野では水のあるところ(岩清水)に導き、緑の牧草が豊かな約束の地に連れて入ってゆきました。5節のわたしを苦しめる者を前にしても、あなたはわたしに食卓を整えてくださる。わたしの頭に香油を注ぎ、わたしの杯を溢れさせてくださる。という言葉は、敵のただ中からの救出のしるしとして祝った最初の過ぎ越しの食事を意味しているとも理解できます。「御名にふさわしく」とは「ヤーウェ」という聖なる神の名前が本来、ヘブル語の動詞形の「ヤー」という語に由来し、それが「ある、存在する」「ありてある者」という意味であったように、神が常にその民と共にあったこと(インマヌエル!)を意味しています。「ヤーウェ」という御名にふさわしく、その民を守り、導き、世話をしながら、「正しい道へと導かれた」ということが告白されています。「死の陰の谷」とは「敵に殺される危険」を意味し、これを「暗い闇」と読む人もいるようですが、歴史的には「エジプトでの10の災害」のうちの「暗闇」と「初子の死」を指したものであるとも考えられます。ヤーウェなる神は、小羊の血によってイスラエルの民からこれらの災いを過ぎ越された(英語では「Pass-over」)のでした。「鞭と杖」とは、オオカミを追い払うための「鞭(棒)」と羊を導くための「杖」を意味します。「わたしの頭に香油を注ぎ」とは「主人のもてなしの意を表すために客人に注がれる香油」のことを意味しています。同時にこの「油注ぎ」は、将来のイスラエルに対するヤーウェの祝福を意味しているとも考えられます。主イエスは神によって「油を注がれた者(キリスト/メシア)」となられたのでした。

 本日の福音書の日課にも、「門番は羊飼いには門を開き、羊はその声を聞き分ける。羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、ついて行く」(10:3-4とありました。実際に羊たち一頭一頭には名前が付いていたようです。羊という動物は、大変に視力が弱いようですが、逆に聴覚は並外れて優れていたようです。その羊が迷子にならないように、羊飼い主イエス・キリストは、羊たちが迷子にならないようにその名前を呼びながら、ある時には先頭に立って、ある時には一番後ろから、またある時には羊の横に並んで、歩いてくださるのです。歩けなくなった羊をその胸に抱いて歩いて下さることもあったことでしょう。そして群れの先頭に立って私たちを導き守って下さるのです。羊は羊飼いの声を知っていて聞き分けるので、羊飼いに安心してついて行くことができます。主はわたしの羊飼い、わたしには乏しいことがないからです。

 

私たち一人ひとりもまた、主によって「小さな羊飼い」としてこの世に派遣されてゆく

 そして主が私たちのために命を捨てるよい羊飼いであるという事実は私たちを根底から造り変えてゆきます。私たち自身もまたキリストによってこの世の苦しみや悲しみの中に置かれている「飼う者のない羊」のような存在に向かって派遣されてゆくのです。羊飼いであるキリストはその手足として私たちを用いてゆかれるのです。宗教改革者のルターはそれを「全信徒祭司(万人祭司)」という言葉で言い表しました。「すべてのキリスト者は『祭司』としての務めと責任を持つ」とルターは言ったのです。それは何か。神と人々の間に立つ「祭司」には二つの役割があります。一つは「人々に神の言葉を伝える」という役割です。方向としては、神から隣人に向かう方向(ベクトル)であると言ってよいでしょう。聖書のみ言葉を通して、神のI Love Youという確かな声を隣人に届ける役割です。そしてもう一つは、隣人のために神に対して「とりなしの祈りを捧げること」です。隣人のために祈る役割です。こちらは、先とは逆で、隣人から神へとベクトルは向いています。私たち一人ひとりが「小さなキリスト」となり(ルター『キリスト者の自由』)、「小さな羊飼い」となるのです(それを「真の羊飼いであるイエス・キリストを助ける牧羊犬」と言った私の恩師もいました)。ここに深く大きな、揺るがぬ喜びがあります。まことの慰めがあり、希望があります。この人生という旅路を、真の羊飼いである主イエスの御声に従ってゆく幸いを味わいながら、私たちはご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりたいのです。

 お一人おひとりの上に主の豊かな力と守り、導きと祝福とがありますようにお祈りいたします。アーメン。

 

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