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2017年5月27日 (土)

2017年5月21日(日)復活節第6主日礼拝説教「わたしの弁護者」

2017521日(日) 復活節第6主日礼拝 説教「わたしの弁護者」     大柴 譲治

ヨハネによる福音書 14:15〜21

 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。」(14:16-17a

 

聖書=「神の愛の手紙」

 「聖書は神さまからのラブレター」。これは実存主義の哲学者、ゼーレン・キルケゴール(デンマークのルーテル教会員)の言葉です。「だから聖書のどのページを開いても、そこからは神さまからの『I Love You!』という声が響いてくる」と彼は言ったのです。なかなか味わい深い至言です。「I Love You」は「あなたは(私の)大切な人」とも「(あなたが)大好き!」とも訳せる言葉でしょう。また、意訳すれば「君は愛されるため生まれた」とも「人生には生きるべき大切な意味があり、目的がある」とも訳しうるかも知れません。「I Love You(アイ・ラヴ・ユー)」、もしかするともうこれは既に日本語になっている言葉なのかもしれません。聖書をラブレターとして読むというのは正しい読み方であると思われます。「神はその独り子を賜るほどこの世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るため」なのです(ヨハネ3:16)。そして聖書は神さまの聖霊、愛の霊を受けた人たちが、何とかその愛を伝えようとして書いた文書です。それは一冊になっていますが、そこには旧約聖書に39冊、新約聖書に27冊、合わせて66冊の本が合体しています。66冊はどれも神の愛が最も明確に示された「主イエス・キリストの出来事(受肉と十字架と復活)」を指し示しているという意味で66冊のキリスト」と言った人もいます。

 「神の愛」ということばは最初日本語では「デウスの御大切(ごたいせつ/おたいせつ)」と訳されました。「愛する」とは「大切にする」ということです。「愛する」というよりも「大切にする」という表現の方が私にはストンと腑に落ちるように思われます。神は私たちのためにご自分が一番大切に思っておられたその独り子を与えてくださった。そこに神の愛(御大切)があります。

 「愛」という漢字について誰かが言いました。「愛という字は、真ん中に心という文字があるでしょう。それは心を受けると書くんです。すなわち愛とは、自分の存在の中心で相手の心を受け止めること、互いに受け止め合うことなのです」と。よく見ると愛という文字の中にあるのは「受ける」という字とは少し違うようにも思います。ある漢字語義辞典などを引きますと、「愛」という字は、象形文字的には、「後ろを振り返る人の姿」と「心臓」と「足」とが組み合わさった「別れの切なさ」を表す字であるということのようですが、私自身はこの「心を(存在の中心で)受ける」という説明は「なるほど、愛についてうまく説明している」と思わされています。愛の無い人生があるとすれば、それは何と味気ないものになるだろうかと思うからです。愛し、愛されるということがあるからこそ、私たちの人生は豊かなものとなってゆくのです。

 ある意味で私たちは、「まことの愛、真実の愛とは何か」ということをこの世の人生において懸命に探求しているとも言えます。それは、聖書が告げるように、私たちの心、私たちの魂が、最初から愛を求めるように、真実の愛に向かうように造られているからでありましょう。赤ちゃんを見ると分かりますが、私たちは生きるためには「愛されること」を必要としています。自分を守ってくれる親の愛なくしては片時も生きることはできません。そのように赤ちゃんはまず最初に「愛されること」を通して「愛すること」を学んでゆくのです。そして長じて、例えば家族を持ち、親となることで、「愛すること」を通して「自分が愛されてきたこと」をも確認してゆくのです。「愛されること」の大切さ、「愛を豊かに注がれること」の必要性はどれほど強調しても強調しすぎることはありません。私たちが今ここに生きて存在しているのは、多くの人々の愛を受けてきた結果なのです。ここに至るまでに私たちは無数の他者からの「愛」という恩を受けてきました。この世を生きてゆく上で、私たちには愛されてきたこと、大切にされてきたことの記憶を想起することが大切です。

 

「彼は私の弁護者(カウンセラー)なんだ」〜映画『フィラデルフィア』(1993)より

 私は映画が好きで、時折時間を見つけては映画館に足を運んだり、テレビで鑑賞したりします。『フィラデルフィア』(1993)という映画をご存知の方もおられるかもしれません。その映画は大変にシリアスなテーマを扱っていて、同性愛(ゲイ)のためにエイズになった一人の弁護士が主人公で、実際にあった出来事をベースにして作られたようです。同性愛やエイズに対する偏見のために弁護士事務所を不当に解雇された主人公アンドリュー・ベケットを名優トム・ハンクスが演じ、その年のアカデミー主演男優賞を獲得しています。その弁護士事務所の先輩弁護士たちを主人公が裁判に訴え、それに勝訴するプロセスを描いた映画でした。主人公自身も弁護士なのですが、その難しい裁判の弁護を引き受けてくれる弁護士がなかなか見つからず、結局デンゼル・ワシントン演じる黒人弁護士ジョー・ミラーが孤立無援の主人公に対し共感を覚えて弁護を引き受けてゆきます。そこに人間としての友情が芽生えてゆくというヒューマンな流れも描かれた映画でした。映画は、同性愛や友情、家族愛といった様々な領域の愛を扱いながら、「真実の人間の愛とは何か」ということを深く掘り下げていたと思います。愛とはどこまでも相手をありのままで大切にすることなのです。「フィラデルフィア」というタイトルにも実は深い意味が込められています。それはギリシャ語の「フィリア(愛)」と「アデルフィア(兄弟)」という語が繋げられた言葉で「兄弟愛」を意味しています。映画の舞台は米国の独立宣言起草の町であるペンシルバニア州のフィラデルフィアでした。そこは同性愛やエイズなど社会的に様々な課題を抱えている町でもありました。

 その映画には印象的な場面がいくつもあるのですが、その中でも主人公が自分の家族にこれから自分がやろうとしている裁判について話しをする場面がありました。年老いた両親も兄弟たちやその家族たちも、一人ひとりが、主人公たちのカップルを信頼し、愛し、「自分の思っていることを貫け、私たちはそれを心から理解し応援するから」と言ってくれたのです。家族の愛に支えられ、励まされて、主人公が孤立無援の闘いを決断してゆくことがよく伝わってくる場面でした。やがて病気が進行する中、裁判が進んでゆきます。そして遂に法廷で主人公はめまいがし、力尽きて倒れてしまうのです。しかし弁護を引き受けた黒人弁護士の努力もあって、結果としてその裁判は勝訴に終わります。同性愛やエイズに対して偏見を持つ人々の闇が次第に明らかにされてゆきます。主人公が入院している病院に弁護士が勝利を告げに訪れる場面だったでしょうか、死を目前にした主人公が嬉しそうに「彼は私のカウンセラー(弁護者)なんだ」と笑顔で周囲の人々に言う場面が深く印象に残っています。

 

「わたしの弁護者」

 本日の福音書には次のようなイエスの約束の言葉があります。あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」(ヨハネ14:15-17)。父なる神が聖霊を私たちの弁護者として派遣して下さると言うのです。この「真理の弁護者」がどのような困難な時にあっても私たちを見捨てず、必ず共にいて私たちを守り、支え、導いてくださる。これはまことに確かな事柄です。

 ヘンデルの『メサイア』の中に「ワンダフルカウンセラー」という言葉がとても印象的な曲があります(第一部第12「ひとりのみどりごがわれらのために生まれた」)。それはイザヤ書の9:5(口語訳では6節)のメシア預言からの引用ですが、そこにはこうあります。「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者(Wonderful Counselor口語訳聖書では「霊妙なる義士」となっていました)、力ある神(Almighty God)、永遠の父(Eternal Father)、平和の君(Prince of Peace)』と唱えられる」。「わたしの弁護者・ワンダフルカウンセラー」として私たちを愛し、その心をご自身のはらわた(中心)で受け止めながら、どのような困難な状況の中にあっても私たちと共に歩んでくださるお方がおられます。そのお方につながっている幸いを深く味わいながら、新しい一週間をご一緒に踏み出してまいりましょう。お一人おひとりの上に祝福をお祈りいたします。 アーメン。

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