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2017年5月14日 (日)

2017年5月14日(日)復活節第5主日礼拝 説教「いのちの道」

2017514日(日)復活節第5主日礼拝 説教「いのちの道」大柴譲治 joshiba@mac.com

ヨハネによる福音書 14:1〜14

イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(6節)

 

「わたしは道であり、真理であり、命である」

 ヨハネ福音書はある意味、非常に分かり易い書物です。イエスがご自分のことを「わたしは〇〇である」と宣言している言葉が多く、私たちの記憶に留まり易いためであると思われます。例えば先週私たちはヨハネ10:11から「わたしはよい羊飼い。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる」という言葉を聞きました。また、「わたしはブドウの木、あなたがたはその枝である」(15:5)、「わたしは復活であり、命である」(11:25)、「わたしは世の光である」(8:12)、「わたしは命のパンである」(6:35などなど、印象に残る主イエスの言葉は枚挙にいとまがありません。

 本日の箇所も同様です。主イエスはそこで「わたしは道であり、真理であり、命である。」と宣言しておられる。そして「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言われているのです。その意味するところは明白です。キリストは父なる神に至る道であり、真理に通じる道、命の道である、というのです。私たちに神に至る一つの道が示されているのです。本日は「道」ということについてみ言葉に聴いてまいりましょう。

 

「キリスト道」を歩む

 ローマ帝国は交通のために「道路網」を整備しました。「すべての道はローマに通じる」という言い方があるくらいです。ヨーロッパとアジアを結ぶ「シルクロード(絹の道)」という道もありました。「道」というものを通して、商業や貿易、文化や人的な交流が促進されてきたのです。私たちは「道」というものの大切さを知っています。「道」を通って私たちは目的地に向かってゆくのです。日本語には「道を究める」という言い方があります。書道や茶道、華道や武道(剣道や柔道、弓道など)、道教の影響もあってのことでしょう、何事も「真理に通じる道」として受け止められてきました。そしてどのような「道」であっても生涯を賭けて「芸を磨いてゆくこと」「道を究めてゆくこと」が大切というように考えられてきたのです。

 私たちにとってキリストを信じる「信仰」も一つの「道」であると位置付けることができましょう。私はそれを「キリスト道」と呼びたいと思っています。しかしこの道は私たちが神へと近づいてゆくような「上り道」ではない。私たちは自らの「罪」のゆえに神に近づいてゆくことができなかったからです。この「道」は、神が、天におられた神の方からこの地上に生きる私たちに近づいて来てくださったそのような「下り道」なのです。自分の能力や業績や努力や地位を誇るような「昇り道」ではない。かえって自分の弱さや破れ、無力さや惨めさを誇る「降りてゆく道」です。パウロも言っています。「私は喜んで自分の弱さを誇ろう。なぜならば、私は弱い時にこそ、キリストにあって強いからだ」2コリント12:9-10「キリストに従う道」とは、自分の強さを誇るのではなく、自分の弱さを誇る、そこに働くキリストの強さを誇る、そのような道なのです。

 

浦河べてるの家

 今、日本のみならず世界中から注目を集めているのが北海道(北海道も「北の海の道」と書きますね)の浦河というところにある「浦河べてるの家」という精神障がい者の施設とその活動です。その活動が始まってもう30年以上になります。べてるの家とは、1984に設立された浦河町にある精神障がい等をかかえた当事者の地域活動拠点で、社会福祉法人浦河べてるの家(2002年法人化-2つの小規模授産施設12の共同住居、3つのグループホーム)、有限会社福祉ショップべてるなどの活動の総体です。そこで暮らす当事者たちにとってそれは、①生活共同体、②働く場としての共同体、③ケアの共同体という3つの性格を有しています。最初はクリスチャンソーシャルワーカーの向谷地生良という方が日基教団浦河教会で始めた小さな活動から始まりました。今は日本中から病気を抱えた人が集まってきて、何と年商1億円もの利益を出すまでになっています。もちろん「べてるの家」は聖書から命名されています。「ベテル」とは「ベート・エル(神の家)」という意味です。

 皆さんの中にも「当事者研究」という言葉をお聞きになった方もおられることでしょう。浦河べてるの家では、皆が自分の病気を自分で研究材料にしているのです。それは「当事者研究」と呼ばれています。たとえば、幻聴を持っている人はそれを「幻聴さん」と呼んで研究対象にしてしまっているのです。病気が治るわけではありません。むしろ病気さえも自分に与えられた「個性」として笑いながら味わい楽しむというような姿勢でしょうか。病気はよくならないのに、皆がそれを抱えたままでどんどん元気になってゆく。不思議な実践です。私は20079月に浦河べてるの家を訪問させていただいたことがあります。その半年ほど前に教会のニュースレターに書いた文章がありますのでご紹介させてください(むさしのだより20073月号巻頭言)。

 

浦河べてるの家の「当事者研究」  大柴讓治

「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」2コリント12:10/ クリスチャンのソーシャルワーカー向谷地生良(むかいやち いくよし)氏の書いた『安心して絶望できる人生』(NHK生活人新書、2006)という書物を知った。そのたすきには印象的な言葉がある。「病気なのに心が健康になってきた。精神病を抱えた人たちが、自分で自分の助け方を見つける浦河べてるの家。今日も順調に問題だらけだ!」北海道の襟裳岬の近くに浦河という人口15千人の過疎の町があり、そこに「浦河べてるの家」という共同体がある。「べてる」とは「神の家」(創世記28章)という意味のヘブル語。その「問題だらけの共同体」についてのレポートが実に面白く、読む者の心にまっすぐに響いてくる。/ そこには、これまで幻聴など精神的な病いに長く苦しめられてきた人々が自分自身を研究対象にすることで気づきを深め、それを分ち合うことを通して共同体を形成してゆく姿が描かれている。題して「当事者研究」。なるほど!それは私にとって「目からウロコ」体験であった。私たちの問題は「自分の中に弱さを抱える」ことにあるのではなく「その弱さを分かち合う共同体を形成できないでいる」ことにあるのだ。困った時に、それを乗り越えること以上に大切なことは、「今、私は困っています」というSOSを外に向かって発することなのである。これが簡単に見えて難しい。自分の無力さをさらけ出すことになるからだ。しかし不思議なことに、それができた時に共同体が形成されてゆく。安心して弱さを分ち合い、絶望を担い合うことのできる共同体がそこに出現する。「しかし、『絶望感』という鉱脈を掘り当てたときに、ふつふつとわき上がってきたのは、不思議にも『充実感』だった」(『べてるから吹く風』)。ティリッヒに触発されながら向谷地氏は、イエスが人々の弱さの中に降り立ったことに思いを馳せつつ、ソーシャルワーカーとして自らの無力さを原点に「安心して絶望できる援助」を展開してゆく。/それは決してきれい事ではない。そこには生身のぶつかり合いがあり、徒労と失望の涙があり、どん底を共に生きようとする覚悟があり、気が遠くなるような忍耐がある。同時に、底抜けの明るさがあり、ユーモアがあり、しぶとい生命力があり、かけがえのない人間のドラマがある。登場人物一人ひとりが何と生き生きと輝いていることか。べてるの家の混とんとした現実を見守る精神科医や看護師、ソーシャルワーカー、牧師や浦河の人たちの姿も実に温かい。/ この世の上昇志向的な価値観に真っ向から対立するその「降りてゆく生き方」に「我弱き時にこそ強し」というパウロの言葉を思い起こす。そこにキリストのリアリティーを強く感じるのは私だけではあるまい。この本を多くの方に手にしていただきたい。そして私たちの気づきを分ち合うことができれば、私たちもそのような共同体に参与できるようになるのではないかと思う。

 

 「わたしは道であり、真理であり、命である」と宣言して下さった主イエス・キリスト。「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と言いながら、向こう側から私たちの所にその命の道を開いて下さったお方がいます。そう言って私たちと共に歩んでくださるお方がいる。そのお方につながっている幸いを深く味わいながら、この新しい一週間をもご一緒に踏み出してまいりましょう。

 お一人おひとりの上に復活の主の豊かな力と祝福とがありますように。アーメン。

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