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2017年4月30日 (日)

2017年4月30日(日)復活節第三主日礼拝説教「人生の途上で」

2017430日(日) 復活節第三主日礼拝 説教「人生の途上で」   大柴 譲治 joshiba@mac.com

ルカによる福音書 24:13-35

30 一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。 31 すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。 32 二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。(30-32節)

 

復活=すべての始まり

 教会暦では本日は復活節第三主日。私たちはイースターの出来事が「すべての始まり・信仰の原点」であったことを知っています。キリストの復活がなければ復活の主と出会った人々が死をも恐れずに全世界に出て行って福音宣教するということは決して起こりませんでした。イエスの弟子たちは十字架のもとから一人残らず逃げ去りました。遠藤周作の言葉を借りれば、彼らは皆「主を捨てた弱虫」だったのです。しかしそんな彼らが復活の主と出会うことによって、それまでとは全く異なり、死をも恐れず復活の主の福音を宣教する「新しい人間」に造り変えられていった。歴史学が証明できるのは「主イエスの空の墓」まででしょう。しかし弟子たちの心の中には確かに主がよみがえってご自身を啓示されたのです。遠藤周作はその意味でこう言っています。「復活は、歴史的な事実であるとは証明できないかもしれないが、それは弟子たちにとってはまぎれもない真実の出来事であった」。信仰者にとってこの世に起こるすべての出来事復活の光に照らされています。

 使徒パウロも1コリント15章で言っています(3-22節)。「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。次いで、五百人以上もの兄弟たちに同時に現れました。そのうちの何人かは既に眠りについたにしろ、大部分は今なお生き残っています。次いで、ヤコブに現れ、その後すべての使徒に現れ、そして最後に、月足らずで生まれたようなわたしにも現れました。わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です。神の恵みによって今日のわたしがあるのです。そして、わたしに与えられた神の恵みは無駄にならず、わたしは他のすべての使徒よりずっと多く働きました。しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです。とにかく、わたしにしても彼らにしても、このように宣べ伝えているのですし、あなたがたはこのように信じたのでした。キリストは死者の中から復活した、と宣べ伝えられているのに、あなたがたの中のある者が、死者の復活などない、と言っているのはどういうわけですか。死者の復活がなければ、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。なぜなら、もし、本当に死者が復活しないなら、復活しなかったはずのキリストを神が復活させたと言って、神に反して証しをしたことになるからです。死者が復活しないのなら、キリストも復活しなかったはずです。そして、キリストが復活しなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお罪の中にあることになります。そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めな者です。しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました。死が一人の人によって来たのだから、死者の復活も一人の人によって来るのです。つまり、アダムによってすべての人が死ぬことになったように、キリストによってすべての人が生かされることになるのです。」

 

人生の途上で〜エマオ途上で復活の主と出会う

 本日の福音書にはエマオ途上での出来事が記されています。「ちょうどこの日、二人の弟子が、エルサレムから六十スタディオン(約11キロ)離れたエマオという村へ向かって歩きながら、この一切の出来事について話し合っていた。話し合い論じ合っていると、イエス御自身が(向こう側から)近づいて来て、一緒に歩き始められた。しかし、二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった。イエスは、『歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか』と言われた。二人は暗い顔をして立ち止まった。その一人のクレオパという人が答えた。『エルサレムに滞在していながら、この数日そこで起こったことを、あなただけはご存じなかったのですか。』イエスが、『どんなことですか』と言われると、二人は言った。『ナザレのイエスのことです。この方は、神と民全体の前で、行いにも言葉にも力のある預言者でした。それなのに、わたしたちの祭司長たちや議員たちは、死刑にするため引き渡して、十字架につけてしまったのです。わたしたちは、あの方こそイスラエルを解放してくださると望みをかけていました。しかも、そのことがあってから、もう今日で三日目になります。ところが、仲間の婦人たちがわたしたちを驚かせました。婦人たちは朝早く墓へ行きましたが、遺体を見つけずに戻って来ました。そして、天使たちが現れ、「イエスは生きておられる」と告げたと言うのです。仲間の者が何人か墓へ行ってみたのですが、婦人たちが言ったとおりで、あの方は見当たりませんでした』」(13-24節)。弟子たちは二人とも目の前にいる人がイエスだということに気づきません。それはそうでしょう。彼らが主と慕っていたイエスは十字架の上で殺されてしまったのですから。空っぽの墓しか見当たらなかったのに、何人かの女性たちが天使たちから「イエスが復活(再起)して生きておられる」と告げられたと言い始めたというのです。復活という出来事は理性や経験や常識の次元ではどうしても私たちには理解することのできない事柄です。16節の「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」とはそのことが表現されているのでしょう。頑なに思い込んでいた二人の弟子たちにイエスは言われます(25-32節)。「ああ、物分かりが悪く、心が鈍く預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち、メシアはこういう苦しみを受けて、栄光に入るはずだったのではないか」。そして主は、「モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」のです。目指す村に近づきましたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子でした。それを二人は無理に引き留めます。「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」。そう促されてイエスは共に泊まるため家に入られました。「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった。すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった。二人は、『道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか』と語り合った」(30-32節)。

 この場面はとても大切なことを示しています。20節の「イエスがパンを取り、讃美の祈りを唱え、パンを裂いて(二人に)お渡しになった」というのは、礼拝と聖餐式を意味します。聖餐式を通して彼らの「遮られていた目が開け」、それがイエスだと初めて分かるのです。しかしイエスの姿が次の瞬間には見えなくなっていました。聖餐礼拝を通して二人は復活の主が今も生きて彼らと共にいてくださるというキリストのリアリティ、復活の主のリアルプレゼンス(現臨)を生き生きと感じ取ることができたということでしょう。そしてそこから振り返った後から、主が聖書について語ってくださった「あの時、(自分たちの)心は燃えていたではないか」ということに気づかされるのです。これはとてもおもしろい表現です。ボーッと劇的に燃えたのではない。後から気づくほど心は静かに温かく燃えていたということでしょう。私たちは気をつけたいのです。何かに一生懸命になる時に私たちの視野は狭まり、自分のことしか見えなくなってしまいやすいからです。そして周囲の人を傷つけたり、自分をも追い詰めたりしてしまう。しかし「信仰」はそういうものではない。復活の主は共にいてくださることを後から気づくことができるような仕方で、み言葉の穏やかな味わいの中に示してくださるのです。

 

人生の途上で〜一人の青年の洗礼式にあたって

 本日はこれから一人の青年女性の洗礼式に与ります。主イエス・キリストが一人の姉妹を深く愛してくださり、その愛への応答としてこの姉妹は主イエスを信じ、自分の救い主として告白し、洗礼を受けられます。エマオ途上で復活の主が二人の弟子たちに近づき、彼らと共に旅をし、聖書のみ言葉を通して彼らの心を静かに燃え立たせ、礼拝と聖餐を通して彼らの目を開いてくださったように、この姉妹がキリストの恵みの御業の中に新しく生まれ変わり、人生を主と共に歩むことをご一緒に喜びたいと思います。神さまの豊かな祝福をお祈りいたします。そしてまた、この洗礼式を通して私たち自身も自らの洗礼式に思いを致し、人生の途上で復活のキリストと出会って私たち一人ひとりが主を信じる者とされていることを覚えつつ、共に主キリストに従ってまいりたいと思います。お一人おひとりの上に復活の主の豊かな力と祝福とがありますように。アーメン。

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