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2017年4月 9日 (日)

2017年4月2日(日)四旬節第五主日礼拝説教「わたしは復活であり、命である」

201742日(日)四旬節第五主日礼拝説教「わたしは復活であり、命である」 大柴譲治

ヨハネによる福音書11:1−45

 25 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 26 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」 27 マルタは言った。「はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております。」(ヨハネ11:25-27

 

「わたしは復活であり、命である。」

 今はレント(四旬節)。次週49日(日)よりいよいよ受難週に入ります。主の十字架への歩みに思いを向けつつ、私たちは一日一日を大切に過ごしてゆきたいと思います。

 本日の福音書の日課にはイエスがマルタとマリアの兄弟ラザロを甦らせる場面が与えられています。「イエスは彼らを愛しておられた」と記されていますが、マルタとマリアが人を遣わしてイエスのところにラザロが病気であることを伝えても、不思議なことにイエスは全く動こうとされませんでした。その結果手遅れになってしまって結局ラザロは死んでしまいます。マルタもマリアもそれぞれイエスに「なぜすぐに来てくださらなかったのか」という恨み節を語っています。主よ、もしここにいてくださいましたら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」(21節と32節)。

 イエスはラザロを甦らせるに先立って、愛する者を亡くして嘆き悲しむマルタにこう言うのです。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、けっして死ぬことはない。このことを信じるか」と。私はこのイエスの言葉を聞くたびにいつも思うのですが、これは私たち死すべき定めにある人間には決して語ることのできない言葉であり、やがて死者の中からよみがえられるイエスにしか語り得ない神の権威を持った言葉であると思います。「わたしは復活であり、命である。このことをあなたは信じるか」。そうイエスは私たち一人ひとりの目をまっすぐに見ながら語りかけておられるのです。

 昨夜もテレビでミュージカル映画『ウェストサイド物語』を放映していました。作曲家で指揮者であったレナード・バーンスタインが1957年にミュージカルとして作曲した現代版「ロミオとジュリエット」とも言うべき名作です(映画化は1961年)。人生においては愛する者との別離ほど悲しく苦しい体験はありません。生木を引き裂かれるような痛みを伴うものです。ウラジミール・ジャンケレビッチというフランス人の哲学者は、「死」というものには「三人称の死」「二人称の死」「一人称の死」の三つがあって、次第に私たちに近づいてくると語ります。「三人称の死」とは、単数形であるか複数形であるかは問わずに、「彼とか彼女の死」であり私たちからは遠いところにある「第三者の死」のことを意味します。それに対して「二人称の死」とは「私たちにとってごく身近な者の死」であり、「私の愛するあなた(たち)の死」なのです。そして最後の課題として「一人称の死」、すなわち「私(たち)自身の死」が迫ってきます。

 また、アール・グロルマンというユダヤ教のラビはこう言っています。「親を亡くすということは自分の過去を失うということであり、配偶者を亡くすということは自分の現在を失うということ、そして子供を亡くすということは自分の未来を失うということである」と。兄弟や友人を亡くすこともおそらく配偶者同様「現在」を亡くすということなのでしょう。私たちのアイデンティティーは他者との関わりの中で深く形成されてゆきます。その関わりが失われるということは、その人との関わりの中で与えられてきた私自身のアイデンティティーが失われるということで、そのことを通して私たちは自分の心の中にポッカリと穴が空いてしまったように感じられるのです。生きるということは何と辛く悲しいことでしょうか。どれほど大切に愛し必要とし合っていても、私たちは死ぬ時は一人、徹頭徹尾孤独な存在です。歌人は歌います、「咳をしても一人」(尾崎放哉)と。グリーフケアに関わらせていただいて次第に分かってきたことは、私たちは悲しい時や苦しい時には我慢せずに自然に悲しみや憤りの涙を流した方がよいということです。悲嘆を安全に表現することができるような空間と時間、そして友(関係)が必要となる。その時嘆きを黙って受け止めてくれる存在を持つ者は幸いです。

 イエスはラザロの死を知って繰り返し激しく憤りを覚え、涙を流されます(憤り:3338節、涙:35節)。イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。『どこに葬ったのか。』彼らは、『主よ、来て、御覧ください』と言った。イエスは涙を流された。ユダヤ人たちは、『御覧なさい、どんなにラザロを愛しておられたことか』と言った。しかし、中には、『盲人の目を開けたこの人も、ラザロが死なないようにはできなかったのか』と言う者もいた。イエスは、再び心に憤りを覚えて、墓に来られた。墓は洞穴で、石でふさがれていた」(33-38節)。イエスは何に対して強く憤られたのでしょうか。悲しみの中で人間を支配し、非人間化しようとする「死と墓の力」に対して憤られたのでしょうか。ここで「石でふさがれていた洞窟の墓」とは人の力ではどうすることもできないような「死すべき定め」であるとも言えましょう。しかし、ラザロやマルタやマリアを愛するが故にイエスは死の力にたいして闘いを布告しているのです。

 中世ヨーロッパにおいては「メメントモリ」(死を覚えよ)という言葉が合言葉のように語られていたようです。人間が持つ「死すべき定め」の中、互いに「メメントモリ」と告げ合うことを通して「カルペディエム」(今この瞬間を掴んで生きよ)ということの重要性を確認していたのです。

 

「復活」=「再起」

 「復活」(ギリシャ語で「アナスタシス」)とは「再び立つこと」、すなわち「再起」のことです。これは聖書をケセン語に訳したカトリック信徒の山浦玄嗣(はるつぐ)医師が強調していることでもあります。「七転び八起き」という言い方がありますが、「復活(再起)」とは転んでも転んでも起き上がり続けることです。キリストを信じる者は「たとえ死んでも生きる」のであり、生きていてキリストを信じ続ける者は「いつまでも死なない」とはそのような意味なのです。イエスを信じるということは苦しまなくなることでも悲しまなくなることでもありません。主が十字架を担われたように私たちは自分の十字架を担わなければならないのです。突然病いを患い、苦難を得て「神さま、なぜなのですか?」と問い続けている人もおられましょう。しかしそれでもなお、信仰を通して生死を超えたところから与えられる「七転び八起き」(アナスタシア)の生の次元が開かれてゆきます。

 主イエスは言われました。「わたしは復活(再起)であり、命である」と。そして続けられます。「わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、けっして死ぬことはない。このことを信じるか」。病いによっても死によっても奪われることのない真の命がある。ラザロをよみがえらせたキリストもまたそのように生き、そのように死んでゆかれたのです。そして三日目に死人のうちから復活(再起)されました。私たちもまたキリストの死と復活のLifeにあやかって生きる者でありたいと思います。

 本日もまた私たちは聖餐式に与ります。この食卓は終わりの日の祝宴の先取りであり、前祝いでもあります。「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これは罪の赦しのためあなたと多くの人のために流すわたしの血における新しい契約」と言ってパンとブドウ酒を分かち合ってくださったイエス・キリスト。生者と死者の双方の救い主であるイエス・キリストの食卓にはすべての人が招かれています。

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