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2017年4月17日 (月)

2017年4月16日(日)復活祭・大阪教会宣教百年記念礼拝説教「すべての始まり」

2017416日(日) 復活祭・大阪教会宣教百年記念礼拝説教「すべての始まり」 大柴譲治

使徒言行録10:39〜43 / ヨハネによる福音書20:1〜18

イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。 (ヨハネ20:16

 

復活=すべての始まり

 イースターおめでとうございます! この喜びの日を今日ご一緒に迎えることができたことを感謝します。

 イースターの出来事は、私たち信仰者にとっては、すべてはそこから始まっている「すべての始まり・原点」とも呼ぶべき出来事でした。キリストの復活は、それ以前とそれ以降の人間の生き方を完全に分つ出来事です。旧約聖書は「光あれ!」という神の言葉(神の声)によって始まっていますが、キリストの復活はそれ同様に、死と闇と絶望のただ中で神が「光あれ!」と呼ばわって「光があった」という出来事であり、すべての始まりなのです。この「光あれ!」と闇の中に響く神の声こそ、私たちの主イエス・キリストの存在です。

 その始まりの出来事を、ヨハネ福音書は次のようにダイナミックに描写しています。初めに言があった言は神と共にあった言は神であったこの言は初めに神と共にあった万物は言によって成った成ったもので言によらずに成ったものは何一つなかった言のに命があった命は人間を照らす光であった光は暗闇の中で輝いている暗闇は光を理解しなかった」(1:1-5)。声は言葉を乗せて運ぶ車(ヴィークル/器)です。バッハのカンタータではないですがそこには「目覚めよと呼ばわる者の声がする」のです。十字架で「すべては終わった」「the end」と思われていた中で、復活によってすべては再起し、新しい光の中に置かれることになりました。十字架において敗残されたキリストが、復活によって「勝利者キリスト」になられたのです。イザヤ書53章の「苦難の僕」の預言が「主の復活」において成就したのです。見るべき面影はなく、輝かしい風格も好ましい容姿もない彼は蔑され人々に見捨てられ、多くの痛みを負い病を知っている彼はわたしたちにし、わたしたちは彼を蔑し無視していた彼が担ったのはわたしたちの病、彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに、わたしたちは思っていた、神の手にかかり打たれたから、彼は苦しんでいるのだ彼が刺し貫かれたのは、わたしたちの背きのためであり、彼が打ちかれたのは、わたしたちの咎のためであった彼の受けた懲らしめによって、わたしたちに平和が与えられ、彼の受けた傷によってわたしたちはいやされた」(イザヤ53:2-5)。

 先週私たちは子ロバに乗ったイエスが私たちの王として神の都エルサレムに入城される場面を読みました(マタイ37-40節)。本当の意味で復活のキリストを通して、「ホサナ(主よ、お救いください。)」という叫び声は実現し、「天には平和、いと高きところには栄光」が成し遂げられたのです。それはネガフィルムとポジフィルムが反転するような、天地がひっくり返り逆転するような、大いなるどんでん返しでありました。私たちの思いをはるかに越えた「始まりの出来事」だったのです。すべてはこの主の復活の光のもとに置かれています。すべてはその光によって照らされているのです。

 

大阪教会宣教百年の歴史を振り返って〜『大阪教会七十周年記念誌』

 この世のすべては、このキリストの復活の光の中で輝いています。だから私たちは、どのような困難な状況の中におかれても絶望しません。パウロが2コリント4章で言う通りです(4:6-12)。「『闇から光が輝き出よと命じられた神はわたしたちの心のに輝いてイエスキリストの御に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいましたところでわたしたちはこのよな宝を土の器に納めていますこの並外れて偉大な力が神のものであってわたしたちから出たものでないことが明らかになるためにわたしたちは四方から苦しめられても行き詰まらず途方に暮れても失望せず虐げられても見捨てられず打ち倒されても滅ぼされないわたしたちはいつもイエスの死を体にまとっていますイエスの命がこの体に現れるためにわたしたちは生きている間えずイエスのために死にさらされています死ぬはずのこの身にイエスの命が現れるためにしてわたしたちのには死が働きあなたがたのには命が働いていることになります。」そしてパウロは続けます。「だからわたしたちは落胆しませんたとえわたしたちの外なる人は衰えていくとしてもわたしたちのなる人は日々新たにされていきます」(2コリント4:16ルターは「キリストが『悔い改めよ』と命じるように、キリスト者の全生涯は日毎の悔い改めである」と言いましたが、私たちは日々新たにキリストと共に死んで、キリストと共に復活することを体験しているのです。私たちはこのような復活のキリストを信じる信仰によって生かされています。

 今日は大阪教会の宣教百年の誕生日です。私たちの大阪教会は、今から百年前、今年が「宗教改革500年」ですが、「宗教改革400年」運動のうねりの中で生み出されてゆきました。そのことは今からちょうど30年前の1987419日に発行されたこの『大阪教会七十周年記念誌』に明らかです。米国から派遣されたCWヘプナー宣教師によって大阪伝道は始められてゆきました(1917- 193518年間)。天王寺村脇ケ岡の地で持たれた最初の礼拝は191748日、復活祭の日のことでした。そのあたりの歴史を林鉄三郎兄はこの70周年記念誌の中に克明に記しています。「礼拝の席上、内海伝道師の転入式を執行、山内牧師は『基督の復活』と題して説教され、ヘプナー宣教師のもとに聖餐を守られた。陪餐者は10名であった」とあります(p15)。そして時代状況は急変し、不穏な社会情勢の中で戦争の時代へと突入してゆきます。

 私の手もとに、1999年頃までの大阪教会の年表があります。三浦知夫先生(1996-1999)の作によるでしょうか。それによると、小泉昂牧師(小泉潤牧師の御尊父、小泉基・嗣両牧師の御祖父様)が1931年から1945年まで大阪教会の牧師であったという記録があります。昨日私は193993日付けで木箱に入った聖書と讃美歌、礼拝式文を見つけました。そこには大阪教会の名前に加えて小泉昂牧師のお名前とその当時の七人の役員名が記されています。19391217日に真法院町に大阪教会の礼拝堂が献堂されますが、その際に礎石の中か棟上げの時に建物の中に収められたものでありましょう。今から78年と8ヶ月程前の記録です。このあと小泉昂牧師はしばらくして、「19429月に病状の悪化により休職して静養。代務者として神学校を卒業した吉崎三郎牧師着任。赴任後まもなく出征、フィリピンにて戦死」と記されています。そして「194553日に小泉牧師、41歳で召天」とあります。小泉昂牧師は足かけ14年間この大阪教会のために働かれましたが、志半ばで天へと駆け抜けてゆかれたのでした。その後、小泉牧師夫人とその5人のお子さん(小泉潤牧師がその長男)がどれほどご苦労されたかは想像に難くありません。10歳で父親を亡くされた潤先生は、葬儀途中に空襲警報が鳴って葬儀が中断されたことや、お母さまと一緒に父親を火葬するために棺桶に入れて自分たちでリヤカーに乗せて斎場まで運んだことなどをこの70年誌に記しています(p43)。代務者の吉崎三郎牧師もフィリピンで戦死。ヘプナー宣教師も1935年に東京・鷺ノ宮の神学校に移った後に戦争のため1942年帰国を余儀なくされています。戦後しばらくして稲富肇牧師が着任します(1947-1955)。この稲富牧師の1954125日に今の谷町三丁目の場所に鉄筋新会堂が完成。ここにはそれまでメソジスト教会と幼稚園がありました。稲富牧師の慧眼とその預言者的な決断力には優れたものがあったと思います。そして内海季秋牧師が1960年に着任し16年間牧会の任に当たります(-1976)。その後に石橋幸男牧師が着任(1976-1991)。1991年に松原清牧師が着任し9年間この教会の牧会(-2000)。大阪教会は3年任期でこれまで何人もの副牧師を取ってきましたが、松原先生は1970-1973とこの教会の副牧師でもありました。三浦知夫牧師も1996-1999と三年間副牧師でした。そして松原先生と三浦牧師の後には一年間石居正己牧師がピンチヒッターとしてこの教会をカバーし、20014月に滝田浩之牧師が着任(-2016)。内海季秋先生が総会議長であった1969年にはアスマラでJELCが自給をすることを宣言し、19751115日にホテル・ザ・ルーテルがオープンされました。当時は9階建ての建物の最上階に教会が位置していました。それから26年を経て200112月に現在の建物が完成。歴代の牧師とその家族、信徒の方々の厚い信仰がこの大阪教会の内外を貫いて継承されてきたのでした。

 百年の歴史を貫いて、私たちのただ中に生きて働いてこられたお方がいます。それは私たちのために十字架にかかり、甦ってくださった復活の主キリストです。44日に1955年に稲富先生からこの場所で受洗された藤田京子姉がるうてるホームで88歳のご生涯を終え帰天されました。本日は100人ほどの召天者のお写真がここに並べられています。私たちの生きているこの地上の歴史には確かに神の救いのドラマがあります。そのことを覚えながら、私たちもまた復活のキリストの証人として主に従ってまいりたいと思います。お一人おひとりに豊かな主の力と祝福がありますように。大阪教会の今後にも主の導きをお祈りいたします。アーメン。

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