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2017年3月31日 (金)

2017年3月26日(日)四旬節第四主日礼拝説教「因果応報の呪縛からの解放

2017326日(日)四旬節第四主日礼拝 説教「因果応報の呪縛からの解放」大柴 譲治

ヨハネによる福音書 9:1-12

「弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。』」(2-3節)

 

原因結果の法則:「因果応報」

 私たちは普段は意識していませんが、無意識のうちに「因果応報」という考え方を自明の前提としています。「因果応報」という語は本来は仏教用語でしたが、仏教に限らず、また洋の東西を問わずにどの場所、どの時代、どの宗教においてもあまねく通用するような普遍的な考え方です。英語ではそれを「causality」と言いますが、causeとは「原因、要因」という意味で、通常「cause(要因) and effect(影響)」と表現します。「因果応報」とは「すべての出来事には原因があって、その結果こうなった」という「原因→結果」という考え方です。そしてこれは科学的で論理的、かつ実証主義的(evident-based)な方法論として私たちが学校や書物や体験を通して学習してきたことでもあります。例えば、病気になれば対処のためにその原因を探り出さなければなりません。多くの場合、原因が分かればその対処の方法が明確になるからです。事故や災害でも事柄は同じです。なぜ被害が出たのか、被害は最小限に食い止めることができたのか等々、私たちは常に原因を探ります。何か予期せぬ出来事が起こったときにはその原因を調べて、それが反復されることを回避しようとする。それは人間の叡知でもありましょう。

 しかし時にこの「因果応報の考え方」が私たちを不自由にすることがあります。私たちの現実には「必ず原因がある」という考え方が徹底していますから、そこから抜け出すことができず苦しみ続けるということが起こるのです。それは「因果応報の呪縛」とも言うべき状況です。特に自分に何か悪いことが起こった時に私たちは思わず「バチが当たった」と考えがちです。「何か自分が悪いことをしたので、その結果このようなことになってしまった」と自然に考えてしまう。阪神淡路大震災でも、東日本大震災でも、突然の不幸に襲われて愛する者を奪われてしまった人たちは、喪失という深い「悲しみ(グリーフ)」と共に、「Survivor’s Guilt」と言われる悲嘆を体験します。「生き残り罪悪感」とでも訳せるでしょうか。「あの時ああしておけばよかった。ああしなければよかった。そうすればあの人は助かったかもしれない」と深く苦しみ嘆くだけでない。心の深いところで、どうして自分だけが助かってしまったのか、言葉に出すことができない次元で慚愧の思いに深く苦しみ嘆く。これもまた原因があって結果があるという因果応報の呪縛とも申し上げることができましょう。もしかしたら私たち自身も、口には出さなくても心の深い次元で、そのような悔いや無念さを抱えているのかも知れません。「結果」から遡って「原因」を探ろうとするとどうしても私たちは後ろ向きになってしまうのです。そして出口のない暗闇の中に落ち込んで悶々としてしまいます。本日の福音書の日課であるヨハネ9章にはそのような因果応報の呪縛に苦しむ者への主の解放の福音が高らかに告げられています。

 

「ただ神の御業が彼の上に現れるために」(口語訳聖書)

 本日のヨハネ福音書9章には生まれた時から目の見えない一人の盲人を主イエスが癒すエピソードが記されています。この主の奇跡が安息日に行われたということで、この後は安息日論争になってゆくのですが、本日はそこには踏み込みません。その盲人について弟子たちはイエスに重要な問いかけをします。それは因果応報についての問いでした。「弟子たちがイエスに尋ねた。『ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。』イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない神の業がこの人に現れるためである』」(9:2-3)。 

 当時のユダヤ教では不幸は罪の結果(=罰)であると考えられていました。目が見えずに生まれてきた彼は誰の罪を背負ったのかと弟子たちはイエスに問うたのです。これは深く神学的な問題を内包しています。聖書の中、特に旧約聖書の中には因果応報思想があちこちにちりばめられています。たとえば、『小教理問答』では十戒についての記述に次のようにあります。「神はこれらのすべてのいましめに対して、なんと言われますか。答 — 神は次のように言われます。『あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神(新共同訳では「熱情の神」であるから、わたしを憎むものに対しては、父の罪を子に報いて、三四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう』」(出エジプト記20:5-6)。

 しかし同時に、旧約聖書には次のような言葉もあります。「それなのにお前たちは、『なぜ、子は父の罪を負わないのか』と言う。しかし、その子は正義と恵みの業を行い、わたしの掟をことごとく守り、行ったのだから、必ず生きる。罪を犯した本人が死ぬのであって、子は父の罪を負わず、父もまた子の罪を負うことはない。正しい人の正しさはその人だけのものであり、悪人の悪もその人だけのものである。」(エゼキエル18:19-20

 「先祖が酢いブドウを食べれば、子孫の歯が浮く」という因果応報の考え方は、実は旧約聖書でもはっきりと否定されていたのです。申命記24:16にも「父は子のゆえに死に定められず、子は父のゆえに死に定められない。人は、それぞれ自分の罪のゆえに死に定められる。」とありますし、エレミヤ31:29-30等でも明確に否定されています。しかしそれにもかかわらず、弟子たち(当時の人々)は因果応報の考え方に縛られていました。何かが起こると私たちは「何か悪いことをしたからだ」とか「バチが当たった」とか思わず思いがちなのです。

 しかし、弟子たちの問いに対する主イエスの答えは、そのような因果応報思想を明確に、そして完全に否定するものでした。「イエスはお答えになった。『本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである』」。ある意味これは革命的な言葉です。口語訳聖書では「ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである」となっていました。そうです、苦難を通して、ただ神のみわざが現れるためなのです。イエスは彼に「シロアムの池に行って目を洗いなさい」と命じました。彼がその言葉に従ってシロアムの池に行って目を洗ったところ、目は見えるようになりました。

 いずれにせよこの出来事は、苦しみの原因探しという「過去」に向いていた私たちの眼を、その苦難を通して神が何をなそうとされているかという神の御業、言うなれば「未来」へと180度向け直してくれるような画期的な出来事であり、主イエスの言葉であると思います。それは私たちを因果応報の呪縛から解放してくれるコペルニクス的な転換であり、パラダイムシフトであるのです。苦難を通して神は今ここでも働いておられる。私たちはその中に働く神の意図(意味)を意識するように促されています。

 

 「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」の再解釈

 そのことは私にもう一つの深い気づきを想起させてくれます。ウァルデマール・キッペス神父がある場所でこう発言されました。自分は「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」というイエスの十字架上の言葉を、「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか」というようにではなく、「わが神、わが神、なんのためにわたしをお見捨てになったのですか」と理解するべきではないかということを最近気づいたと言われたのです。これは私にとってはハッとさせられた天啓のような言葉でした。そこでは本日のヨハネ9章の「ただ神のみわざが彼の上に現れるために」との主イエスの言葉とつながったのです。過去の原因探しではなく、苦難を通してそこに働く神を認め、神が何をされようとしているのか未来に目を向けるよう私たちは促されているのです。私たちが信じる神は「インマヌエルの神」として、苦難の中にあっても常に苦しむ者と共にいてくださる神なのです。そのことを覚えながら、新しい四旬節の一週間を共に踏み出してまいりましょう。お一人おひとりの上に主の守りと導きとがありますようお祈りいたします。 アーメン。

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