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2017年3月17日 (金)

2017年3月12日(日)四旬節第二主日聖餐礼拝説教「風のそよぎを感じたか?」

2017312日 四旬節第二主日聖餐礼拝 説教「風のそよぎを感じたか?」 大柴 譲治

創世記 12:1-4a / ヨハネによる福音書 3:1-17

「『あなたがたは新たに生まれねばならない』とあなたに言ったことに、驚いてはならない。風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである。」(3:7-8

 

「四旬節(レント)」

 本日は「四旬節(レント)第二主日」。「レント」とは「(日曜日を除く)40日間」の「紫」の期節で、主の十字架への歩みに焦点を当てながら、自らを吟味し祈るときでもあります。「紫」は王の色であると共に悲しみの色、罪の苦しみの色でもある。主イエス・キリストが私たちを救うために私たちの憂い哀しみをすべてその身に背負って十字架へと歩んでくださったことを覚えつつ、本日もみ言葉に耳を澄ませてまいりましょう。

 

アブラハムへの神の祝福の言葉

 本日は創世記12章からアブラハムに対する神の祝福の言葉が与えられています。ここで「アブラハム(諸国民の父)」は「アブラム(群衆の父)」という古い名前で呼ばれていますが、彼は神からの召し出しの声を聴くのです。気がつくといつも私たちの人生のドラマは神の声によって始まります。

 「主はアブラムに言われた。『あなたは生まれ故郷、父の家を離れて、わたしが示す地に行きなさい。わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める、祝福の源(口語訳では「祝福の基」)となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪う者をわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。』アブラムは、主の言葉に従って旅立った。ロトも共に行った」(12:1-4a)。アブラハムは神の言葉を聴くとためらわずにすぐに従ってゆきます。「あなたの息子イサクを献げよ」という神の命にも彼がすぐさま沈黙の中で服従していったことを私たちは知っています(創世記22章)。

 実は本日の旧約の日課は4節の前半までなのですが、後半にはこのような言葉があります。「アブラムは、ハランを出発したとき七十五歳であった」(12:4b)。75歳の旅立ち」です。これは私たちにいくつになっても人生での新しい旅を始めることができると教えている福音なのかもしれません。「生まれ故郷を離れる」ということは、家族と旅に携えてゆくことができる程度の身の回りのもの以外は、それまで自分たちが築き上げてきた大事なものを含めてほとんどすべてを後に残してゆくということです。言い換えればそれは「すべてを捨て、すべてを犠牲にしてゆく」ということでもあります。今はやりの言葉で言えば「断捨離」です。大きな犠牲を払ってアブラハムは神の命に従ってゆくのです。この「祝福の源・基」であるアブラハムの決断と犠牲と神を神とする信仰を通して、多くの人が神の祝福に与ることができるようになるのです。「信仰の父」と呼ばれるアブラハムの面目躍如の出来事であり、それは服従の第一歩でした。

 旅に出るとは先に何が起こるか分からない危険をも覚悟するということでありましょう。神の守りと導きに信頼して第一歩を踏み出してゆくのです。確かにアブラハムは「行き先を知らないで旅立った」のです。目的地もその旅程も何も知りませんでした。「信仰によって、アブラハムは、自分が財産として受け継ぐことになる土地に出て行くように召し出されると、これに服従し、行き先も知らずに出発したのです」(ヘブライ11:8)。「信仰」とは「神が望んでいる事柄を確信し、神の見えない恵みの事実を確認すること」(同11:1だからです。私たちはアブラハムの信仰を知るときに大きな勇気を与えられます。彼は神の言葉に信頼してそこにすべてを賭けたのです。本日の第二日課でパウロが「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」と告げている通りです(ローマ4:3)。「信仰」というと「信じて(神を)仰ぐ」と書きますので何か人間の行為のように感じるかも知れませんが、そうではありません。「信仰」(ピスティス)とは私たちの中に働く神の「まこと(信実)」なのです。そしてそのことは、突然そのような生き方がアブラハムに可能となったということではなくて、それまでも同様に、彼が神を第一として生きてきたということなのでしょう。何歳になっても私たちの人生というドラマは、神のイニシアティブの中で始まり、神のイニシアティブによって導かれ、神のイニシアティブの中で終わります。ちょうど四旬節の歩みが、先週の日課(マタイ4:1-11)では神の「霊」によってイエスが荒野に導かれたところから始まったように、神の霊が私たちの信仰の人生を守り導いているのです。

 

「お前は風のそよぎを感じたか?」

 人生は山あり谷ありです。実際にアブラハムとその親族たちの人生は波瀾万丈に富むもの、試練の連続でした。飢饉のためエジプトに寄留したこともありましたし、ソドムに住んだ甥のロトはソドムの滅びまで体験しました(創世記19章)。その際にロトの妻は後ろを振り返ったために塩の柱になってしまったのです。聖書はどのような時にも私たちが神との生きた関係の中で生きてゆくように、「神からの聖霊の風」を感じながら、その導きに身を委ねて歩んでゆくように招いているのです。

 聖書で「霊」と「息」とも「風」とも訳されます。ヨハネ3章にも「風は思いのままに吹く」とありました。「風」と聞くと私は「剣聖」と呼ばれた剣豪・宮本武蔵を思い起こします。ムサシは若い頃には手が付けられないほどの暴れん坊で、武者修行のためと称して道場破りを繰り返したようです。ある時ムサシは柳生石舟斎という剣の達人に出会います。そこで彼はコテンパンに負けてしまうのです。破れて呆然とするムサシに石舟斎は問いかけます。「お前は風のそよぎを感じたか。鳥の声を聴いたか。小川のせせらぎが聞こえたか」。ムサシはこの言葉にハッとするのです。相手を負かしてやろうという思いだけで精一杯だったからです。石舟斎に言われて初めてムサシが周囲の世界を意識すると、そこには確かに風のそよぎや鳥の音、小川のせせらぎがありました。「自分が、自分が」という自分だけの世界に閉じこもっていた時には感じられなかった次元が突然見えてきたのです。ムサシの頑なな心が打ち砕かれて世界に向かって開かれた瞬間でした。人は自分の中の世界に生きるのではない。事実は逆なのです。世界の中に人は置かれているのであって、人はそこから様々な働きかけを受けており、豊かな繫がりの中に生かされているのです。主体のコペルニクス的転換であり、モノローグからダイアローグへの劇的な転換です。「風は思いのままに吹く」という主イエスの言葉は、そのような「風の中に風じて生きること」を意味します。自分が開かれるとき、柔らかい陽光の中で、私たちに向かって風がそよぎ、雲がたゆたい、小鳥がさえずり、野の花が咲き、木の香りがし、小川のせせらぎや雨の音が聞こえてきます。聖書で「罪」とは「神との関係の破れ」を意味しますが、キリストがもたらしてくださった神との和解は自己との和解と共に神が創造された被造世界との和解でもあるのです。もはや自己の固い殼の中に閉じこもって生きる必要はない。苦しみや悲しみはなくならないかもしれませんが、神が創造された世界とつながって明るい恵みの光の中で生かされていることに目が開かれてゆきます。これは揺るぐことのない神の恵みの事実です。あの3.11東日本大震災から昨日で6年が経ちました。生きることは何と悲しみや苦しみが多いことでしょう。しかし信仰の父アブラハムは私たちに、いつどこでも「神からの聖霊の風」が吹いていて、その「いのちの息吹」を感じて生きることを教えています。だからこそ彼は私たちにとっても「祝福の源」であり「祝福の基」なのです。その神からの風、「神のまこと/信実/ピスティス」はいついかなる時にも、どこにおいても共にあり、私たちを守り導いてゆきます。その風のそよぎを感じつつ新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

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