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2017年3月 1日 (水)

2017年2月26日(日) 主の変容主日聖餐礼拝説教「光輝く主の姿」

2017226日(日) 主の変容主日聖餐礼拝 説教「光輝く主の姿」      大柴 譲治

出エジプト24:12−18 / 2ペトロ1:16−21 / マタイ福音書17:1−9

「ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け』という声が雲の中から聞こえた。」(マタイ17:5

 

「節目」の出来事〜主の山上の変容(変貌=Transfiguration

 人生には「節目」というものがあります。「節目」とは、「それ以前」と「それ以降」とを明確に区切る「分水嶺」のような「時」のことです。本日私たちに与えられているのは「教会暦」において一つの大切な「節目」の出来事です。これまでのおよそ二ヶ月は、16日(金)の「顕現日」(東方からの学者たちが幼子イエスのもとを訪れた日)から始まった「顕現節」(神の栄光が異邦人にも顕現したことを覚える「白」の期節)でしたが、本日の「山上の変貌」の出来事で一つの区切りを迎え、次週からはいよいよ「レント(四旬節、かつては「受難前節」とも呼ばれました)」と呼ばれる「(日曜日を除く)40日間」の、「紫」の期節(主の十字架への歩みに焦点を当てて自らを吟味しつつ祈る期節)が始まります。本日がそれを分ける「節目」の主日となります。

 本日の「山上の変貌」の出来事では、十字架へと踏み出して行くイエスが、旧約聖書の「律法」を代表するモーセと「預言者」を代表するエリヤと「高い山」の上で親しく語り合ったことが記されています。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」2-3節)。この出来事はイエスの生前において唯一回、神の独り子としての栄光の姿、それは復活の勝利の姿ですが、その白く輝く栄光の姿が三人の弟子たちの前に、彼らに見えるかたちで顕されたという大切な出来事でもあります。「光輝く雲が彼らを覆った」とありますが、聖書で「山」は神顕現の場であり「雲」とは神の臨在を意味しますから、神がそこで彼らと共におられたことを意味しています。そして天からの声が雲の中から力強く響き渡るのです。「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」(5節)。これは決定的な出来事でした。これからまさに十字架への具体的な歩みを始めようとするイエスに対して、神が「よし、行け!」と後ろから背中を押したようなものです。ヨルダン川でイエスがヨハネから洗礼を受けた時にも天からの声が響きました(マタイ3:17)。マタイ福音書によればそれは「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声であり、本日の声とほとんど同じです。ただ違うのは本日は最後に「これに聞け」という一語が追加されているということです。この言葉に明らかなように、私たちはどのような中にあっても「ただイエスに聴く」ことが天から求められているのです。私たちの人生にもそれぞれ「節目」と呼ぶべき出来事がありますが、その節目節目で、要所要所で私たちは、ただイエスに思いを向け、耳を澄ませて、イエスの言葉に耳を傾けてゆくのです。私たちが毎週日曜日、週の初めの日にこのように主日礼拝に集ってイエスの言葉に耳を傾けてゆくのも、また、本日も礼拝後に婚約式が行われますが、人生の冠婚葬祭という節目節目、要所要所で主のみ言葉に耳を傾けてゆくのも「これ(イエス)に聴け」と神が呼びかけてくださっているからです。私たちは今年、大阪教会の宣教百年と宗教改革500年の節目の年を迎えていますが、宗教改革500年のバナーに「初めに言葉があった」と記されているのも、ルターが「聖書のみ」と言ってただ神のみ言に聴くことを強調したように、イエス・キリストという「神の生けるみ言」に耳を傾けてゆきたいと思います。

「新しいエクソドス(出エジプト)」

 本日の旧約聖書の日課(出エジプト24章)には、モーセがシナイ山に登ってゆく場面が記されています。シナイ山においてモーセは神から神とイスラエルの民の間の「契約」として「十戒」を与えられてゆくのです。「モーセが山に登って行くと、雲は山を覆った。主の栄光がシナイ山の上にとどまり、雲は六日の間、山を覆っていた。七日目に、主は雲の中からモーセに呼びかけられた。主の栄光はイスラエルの人々の目には、山の頂で燃える火のように見えた。モーセは雲の中に入って行き、山に登った。モーセは四十日四十夜山にいた」24:15-18)。

 福音書の日課の「山上の変貌の出来事」では、「新しいモーセ」としてのキリスト・イエスの姿が示されています。「イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」2節)。ここではイエスが神の栄光を宿すような、まばゆく白く輝く姿で示されています。しかし私たちは知っています。主イエスの栄光の姿が地上において示されたのは十字架に至るまででは後にも先にもこの場面唯一度きりであったということを。ベツレヘムのまぶねの中に始まってゴルゴダの十字架の上に至るまでイエスはその光り輝く栄光の姿を隠した姿でこの地上の最も低いところを歩まれたのです。フィリピ書2章のキリスト讃歌が告げる通りです。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順」(フィリピ2:6-8)でありました。それは何のためか。それは私たちを罪と恥と死の暗い深淵から救い出すためだったと聖書は語ります。

 キリストは自分を無にすること、捨てることによって、私たちにすべてを与えて下さったのです。ご自身の義を私たちの罪と、ご自身の栄光を私たちの恥と、ご自身の喜びを私たちの悲しみと、ご自身の救いを私たちの滅びと、ご自身のいのちを私たちの死と、交換して下さったのです。それをルターは「喜ばしき交換」と呼びました。私たちの誰も、その出来事の中に私たちのための「救い」が備えられているということに気づかなかったのです。

 ルカ福音書の並行箇所を読むと、そこにはイエスがモーセとエリヤと何を話していたかに言及されています。「この話をしてから八日ほどたったとき、イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた。見ると、二人の人がイエスと語り合っていた。モーセとエリヤである。二人は栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(ルカ9:28-31)。「イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期」とは「十字架の出来事」です。「最期のこと」と訳されているギリシャ語は「エクソドス」という語です。「エクソドス」と聞いてピンと来る方もおられましょう。それは「エクス・ホドス」即ち「出て行く道」(「脱出路」とか「突破口」とも訳されます)で、『出エジプト記』のことを英語では「エクソドス」と呼びます。十字架の出来事は私たちを罪と死と滅びから解放するための「新しいエクソドス(出エジプト)」だったということがルカ福音書でははっきりと告げられています。

 「最も小さな者の一人」になられた「み子なる神」

 天においては神と等しかったお方がこの地上に降り立ち、最も小さき者の一人として歩まれました。マタイ25章で主は、「あなたがたは飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれた」と告げられます。私たちが主ご自身のご生涯を思い起こすとき、主はしばしば飢え渇き、枕するところのない旅人であり、人々の病いを背負い、牢獄のような過酷な現実の直中で裁きを受け、裸にされて十字架に架けられたお方であることを私たちは知っています。この世に生きることの苦しみを主はトコトンなめ尽くされたのです。この地上の最底辺、どん底を歩まれました。何のために? それは私たちをそのようなどん底からすくい上げるためでした。英語で「理解する」という意味でunderstandという語を使いますが、これは「under下に」「stand立つ」ということです。最も小さき者の一人として主はすべての者の下に立つことによって人間の窮境を知り、苦しみを理解し、そこからの突破口、脱出路を十字架に開いてくださったのです。そのことを覚えつつ、主イエスを仰ぎながら共に新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

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