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2017年3月 7日 (火)

2017年3月5日(日)四旬節第一主日聖餐礼拝説教「悪魔の誘惑、神の試練」

2017年3月5日(日) 四旬節第一主日聖餐礼拝説教「悪魔の誘惑、神の試練」 大柴譲治

創世記2:15-17, 3:1-7/ローマの信徒への手紙5:12-19/マタイによる福音書4:1-11

イエスはお答えになった。「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある。」(マタイ4:4

 

「レント(四旬節)」

 教会で用いている「教会暦」によると本日から(より精確には先週の「灰の水曜日」から)「レント(四旬節。かつては「受難前節」とも呼ばれていたこともあります)」と呼ばれる「(日曜日を除く)40日間」の、「紫」の期節(主の十字架への受難の歩みに焦点を当てながら、自らの罪を吟味しつつ祈る期節)が始まります。典礼色は「紫」。それは王の色であり、悲しみの色であり、罪を担う苦しみの色でもあります。

 

コップ半分の水のたとえ〜”half empty””half full”

 コップに水が半分入っているのを「もう半分しかない」と見るか、「まだ半分も入っている」と見るか、二つの見方があります。その二つの立場は、「コップ半分の水」という一つの現実のどこを見ているかによって分けられるのです。「もう半分しかない」という見方は、実は100を基準にして50%しかないではないかと、上の「空っぽの部分」に注目しているのです。それに対して「まだ半分もある」という見方はゼロを基準にしていて、50%も入っているではないかと下の入っている部分を見ているのです。英語で言うとさらに明確になります。「half empty(半分空っぽ)」と「half full(半分満杯)」となる。どこを基準にして、どちらの部分を見て生きるかに私たち一人ひとりの生き方が表れています。ゼロを基準に取ることができれば、私たちはずいぶんと楽になれるのです。

 何か苦しい出来事が起こった時、苦しみの中で私たちは「なぜこのような苦難がわたしに起こるのか」とか「神さま、あなたはどうして沈黙しておられるのか」、「自分が生きることの意味はどこにあるのか」と問うて苦しみます。「全く意味はない」という絶望的な思いと、「いや、きっとそこには意味があるに違いない」という思いの間で、私たち人間は行きつ戻りつ揺れ動きながらも、最終的には二つの極に辿り着いてゆくのです。「苦しみの中で絶望する」か、「苦しみの中でも絶望せずに希望を見出し続ける」のか、その二極です。苦しみの中に意味を見出すとは、苦しみを通して新しいものがそこから生じてゆくはずだと考えることであり、苦しみを「産みの苦しみ」と受け止めてゆくということでもありましょう。苦難の意味を見出せない時に、私たちはさらに苦しみます。一体何が二つを分けるのでしょうか。

 本日与えられた聖書では、創世記からはアダムとイヴが神の命を忘れてヘビの誘惑に負ける場面と、マタイ福音書からは主イエスがサタンの誘惑を神のみ言葉(それもすべて申命記からのみ言葉です)をもって撃退する場面が日課として与えられています。アダムとキリストは悪の誘惑に対してのリアクションにおいて、全く異なる二つの極に別れているのです。ローマ書5章でパウロは、アダムによってもたらされた罪の現実がイエス・キリストの義によって既に打破されていることを高らかに宣言しています。

 

「誘惑」と「試練」からの逃れの道

 苦難を「滅びへのサタンの誘惑」と見るのか「霊的な成長への神の試練」と見るのか。この二つの見方は私たちの中に両方ともあって同居しているのです。コインに裏表があるように物事にも両面ある。私たちはある時には「水はもう半分しかない」と絶望的にしか考えられないことがあるし、ある時には逆に「まだ半分もある(残っている)」と楽天的に見てゆくこともある。

 確かに人生には私たちの楽観を許さないような厳しい出来事が時として起こります。この苦しみはサタンの誘惑にしか見えないという出来事が起こるのです。突然の事故や災害、病気や犯罪などによって私たちの幸せは打ち砕かれてゆくことが起こります。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか!)」と叫ぶ以外にないような現実が起こります。しかし神はこの苦しみの中で私の叫びに答えずに沈黙している。ヨブ記などはまさにそのような人間の現実を表しています。苦難は私たちに自分の無力さを教えてくれる。つまり自分は「ゼロ」であり、「無」でしかないことを教えてくれるのです。

 イエスは洗礼の後すぐに、「霊に導かれて」荒野に赴きます。それは「悪魔から誘惑を受けるため」であったと記されています。「誘惑者(=悪魔=サタン=ヘビ)」の誘惑を受けました。主はこれに対して3回とも申命記の言葉を持って退けています。断食後の空腹を狙った「石をパンに変えてみよ」という誘惑に対しては、「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』と書いてある」(マタイ4:4、申命記8:3)。「高い所から飛び降りてみよ。神が天使たちを送って助けると聖書に書いてあるではないか」という神の言葉を持ち出しての巧妙な誘惑に対しては、「『あなたの神である主を試してはならない』とも書いてある」(マタイ4:7、申命記6:16)。高い山の上での「わたしを拝めばすべてを与えよう」という誘惑に対しては、「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」(マタイ4:10、申命記6:13)。

 悪の誘惑に勝利するには神のみ言葉に拠り頼む以外にはない。私たちはこのことを心に刻みつけねばなりません。み言葉を離れては死と滅びしかない。もしかしたら、神のみ言葉を離れる時、キリストのことを忘れるとき、既に私たちはもうサタンの術中にあるのかもしれません。神は試練に耐える力を神のみ言葉を通して、キリストを見上げることを通して与えてくださるのです。主は苦難の生涯を貫いて天の父なる神をまことの神とし続けたお方でした。この「生ける神のみ言葉」に聴き従う時、「サタンの滅びへの誘惑」がそのままで「永遠のいのちを得るための神の試練」である事に私たちは気づかされてゆきます。本日の福音書は、主ご自身が私たちのために、私たちに代わって悪魔の誘惑を受けてくださったと本日の福音書は告げています。ご自身を「無」とされ「ゼロ」とされて、すべてを天の父の御心に委ね切られた主イエス・キリスト。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!」と十字架の上で叫ばれた時にも、天の父との関係はビクともしない揺るがぬものでした。人生の試練の中にあってもこのお方が私たちと共にいてくださいます。

 パウロの言葉を思い起こします。「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(1コリント10:13)。この「試練からの逃れの道」こそ、私たちに与えられた主イエス・キリストの道です。そのことを覚えながら、この新しい一週間をもご一緒に歩んでまいりたいと思います。主がお一人おひとりと共に歩んでくださいますように。アーメン。

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