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2017年2月10日 (金)

2017年2月5日(日)顕現節第五主日(総会)礼拝説教「あなたがたは地の塩、世の光」

201725日(日)顕現節第五主日(総会)礼拝説教「あなたがたは地の塩、世の光」大柴譲治

マタイによる福音書 5:13~20

 

「あなたがたは地の塩、世の光」

あなたがたは地の塩、世の光である(マタイ5:13a14a。この主イエスの言葉を聞くと、正直言って私たちの心の中には複雑な思いが生じるのではないかと思います。「私が地の塩、世の光? それはない、全くない。何かの間違いではないか。イエスさまは買いかぶりも甚だしい」と。このような主の言葉を聞くと、私たちが普段は意識していないような影の部分が意識の表面に浮かび上がってくるのです。しかし主はそのような私たちの思いを十分に承知した上でこの言葉を語っているに違いありません。本日は福音書日課の前半部分(13-16節)に焦点を当て、この「あなたがたは地の塩、世の光である」という言葉についてみ言葉に聴いてまいりましょう。

 

コヘレトの智恵から学ぶ

 『聖書』は「永遠のベストセラー」です。「無人島に一冊だけ本を持ってゆくとすれば、何を持参するか」と問われれば『聖書』と答える人が一番多いのです。『聖書』はまた、旅客航空法で、陸地から720キロ以上離れて飛ぶ国際線の飛行機には必ず、不時着した際の非常用サバイバルセットにも、水や食料、救命胴衣や毛布や照明弾などと共に必ず積み込まれているよう定められています。ジャンボジェットにはそれが15セット搭載されているとのことです(賀来周一)。そのように『聖書』とは有限な存在である私たち人間を超えた何かを、「サムシンググレイトな存在(絶対者、神)」を表すシンボルなのでしょう。信仰の有無や立場の違いを問わずに、聖書には私たちが人として生きてゆくために大切なことが記されているのです。

 木曜日の夕聖研では現在、旧約聖書から「智恵文学」の一つである「コヘレトの言葉」を読んでいます。その7章にはこうあります。順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ、人が未来について無知であるようにと神はこの両者を併せ造られた、と。この空しい人生の日々に、わたしはすべてを見極めた。善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえに長らえることもある。善人すぎるな、賢すぎるな、どうして滅びてよかろう。悪事をすごすな、愚かすぎるな、どうして時も来ないのに死んでよかろう。一つのことをつかむのはよいが、ほかのことからも手を放してはいけない。神を畏れ敬えばどちらをも成し遂げることができる14-18節。下線は大柴記)なかなか味わい深いユダヤ人の智恵であると思われます。「あれかこれか」ではない。「あれもこれも」なのです。状況に応じて、臨機応変に、バランス良く、きちんと、しかしフレクシブルに対処すべきことが語られています。そこにはどこか「清濁併せ呑む」ところがあって、実によい勉強になります。ともすれば「真理は一つだけしかない」と考えがちな私たちにとって、聖書に記された智恵は多面的かつ立体的で、多様で貴重な学びの宝庫です。私たち人間の現実において、大切なことはバランス感覚なのでしょう。キチンと冷静に現実を見きわめながら、バランスを崩さず、賢く、しなやかに、しぶとく生き抜いてゆくこと、これこそ神が私たちに求めておられる生き方なのだとコヘレトは告げているように思われます。

 では、そのような賢者コヘレトの立場から主イエスの語られた「あなたがたは地の塩、世の光である」という言葉を見てゆくとどのようになるでしょうか。イエスは言われます。「あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである」(5:14-15)。光によって照らされると、その反対側には必ず影ができます。光と影は常に表裏一体であり、ワンセットなのです。私たちもまたキリストの光によって照らされるときに、その反対側にはくっきりと自分の影(『スターウォーズ』的に言えば「ダークサイド」でしょうか)ができていることを知るのです。

 私たちは「あなたがたは地の塩、世の光である」という主の言葉を聞くと、そのまぶしさにたじろいでしまい、どこか自分自身に対して後ろめたさを持つのも、実はそのような影の部分が私たちの中に確かにあるということを知っているからと思います。問題はこの光の部分と影の部分の関係であり、バランスです。私たちはそれらをどのようにして自分の中で両立させることができるか、どのようにすればそのバランスを取って生きることができるのでしょうか。そもそも両立などできるのか、バランスなど取れるのか。思春期や青年時代の私はそのような考えには全く思い至らず、批判的でした。あれかこれか、白か黒かを求めて自分の中にある影の部分に苦しみ続けるという苦しい時代を過ごしました。皆さんの中にも同じようなプロセスを経てきた人がおられることでしょう。私の場合には23歳で神学校に入ってからも、29歳で牧師になってからも同じでした。自分が自分であり続けようとする限り、自分の中にはいつも相反する光と影とがあって、それらをどうしても統合することができずにきたのです。白い部分もあれば黒い部分もある、白黒まだらの自分自身を受け止めることができるようになったのは40歳を超えてからだったでしょうか。人生の午後の時間に入ってからのことでした。

 パウロがローマ書7章で語っている言葉はそのままで若い頃の私自身の嘆きの言葉でもありました。わたしは、自分の内には、つまりわたしの肉には、善が住んでいないことを知っています。善をなそうという意志はありますが、それを実行できないからです。わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。それで、善をなそうと思う自分には、いつも悪が付きまとっているという法則に気づきます。『内なる人』としては神の律法を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体の内にある罪の法則のとりこにしているのが分かります。わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか7:18-24)。

 24節のパウロの叫びは(下線を引いておきましたが)、「罪」や自分の中に現前と存在する「影」に苦しむすべての人間を代表する叫びでもありました。パウロ然り、アウグスチヌス然り、ルター然り、内村鑑三然り。彼らは自分自身の罪の問題と格闘し続けたのです。そして苦しみの果てに、それを突破していったのでした。私たちは知っています。パウロは24節のように嘆きつつも、その直後には讃美の言葉を語っていることを(25a)。「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。パウロはどうしようもない自分を主キリストがあの十字架と復活を通して罪と死と滅びから救い出してくださったということを知っているのです。自らの罪の現実に絶望して嘆く彼は、キリストゆえに揺るぐことのない救いの喜びの中にいます。自己だけを見るとどこにも救いは見出せないですが、神とその独り子の愛の御業を知るとき、私たちには讃美と感謝の歌声を発する者へと変えられるのです。それは礼拝においても「二つの告白confession」があって、「罪の告白」と「信仰の告白」が表裏一体であるのと同じです。「罪人にして同時に義人」。白黒まだらの自分がありのままで存在を許されている。

 

あなたがたは地の塩、世の光」:「〜になりなさい」という勧告ではなく、「あなたがたは〜である」という宣言

 「あなたがたは地の塩、世の光である」という言葉は、私たちのために十字架の上で命を捨ててくださったお方の言葉です。私たちの弱さや破れ、罪や恥、不信仰や自己中心性などを深く知りながら(イスカリオテのユダの裏切りやペトロの離反も予告したほどです)、この大地が滅びないための防腐剤としての「地の塩」として、闇の世界を照らす「世の光」として私たちを見ていてくださるキリストがおられるのです。「地の塩、世の光となりなさい」と言われるのではありません。「あなたがたは地の塩、世の光である」と言われているのです。弱さや破れ、矛盾や不信仰や自己中心性を抱えた、影を背負った私たちをそのままで、地の塩、世の光として見、用いてくださる主の姿がそこにはある。何と不思議な恵みの出来事でありましょうか。ルターはそれを「罪人にして同時に義人」と言いました。罪の告白と信仰の告白を表裏一体のものとして私たちは告白できるのです。告白して良いのです。コヘレトが賢く言っているように一つのことをつかむのはよいが、ほかのことからも手を放してはいけない。神を畏れ敬えばどちらをも成し遂げることができるのです(コヘレト7:18)。

 

 私たちは太陽のように自らが光る光源ではありません。月のように太陽の光を反射して夜空に光る星なのです。しかし闇に輝くベツレヘムの星が救い主の誕生を指し示したように、私たちもそのように生きるよう招かれているのです。主イエスは言われました。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである(マタイ5:16)。ここで言う「立派な行い」というのは、主ご自身の「私たちの弱さにおいて働く愛」という意味でありましょう。「弱い時にこそ、わたしたちは強い」のです。キリストの愛とその力とは私たちの弱さにおいて完全に現われてゆくからです。

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