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2017年2月16日 (木)

2017年2月12日(日)顕現節第六主日礼拝説教「怒りの処方箋」

2017212日(日)顕現節第六主日礼拝説教「怒りの処方箋」   大柴譲治

マタイによる福音書5:21-37

「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。」(21-22節)

 

「怒り」のエネルギーをどう統べるか:五つの感情

 本日は山上の説教からイエスの厳しい言葉が与えられています。前半は「怒るな」という戒めが、後半は「姦淫するな(神の定めた結婚を大切にせよ)」という戒めが与えられていますが、今回は特に前半部分に焦点を当ててみ言葉に聴いてまいります。説教題は「怒りの処方箋」。私たちが自分の中に湧き起こる怒りの感情をどのようにコントロールしてゆけばよいのかということについて学びたいと思います。

 私たちは「怒り」という感情を心に秘めています。感情には様々な種類がありますが、「怒り」という感情は特にそこに大きな爆発的なエネルギーを秘めています。私が1996年の夏に米国フィラデルフィアのJeanes Hospitalという病院で三ヶ月チャプレンとして訓練を受けた際、スーパーヴァイザーのDann Ward牧師は「私たち人間の感情には五つある」と言いました。即ち「Mad(怒り)、②Sad(悲しみ)、③Glad(喜び)、④Afraid(恐れ)、そして、⑤Confused/Hurt(混乱/傷つき」の五つです。最初私は「五つ?それほど人間の感情は単純ではないのでは」と思いましたが、考えてみると日本語でも「喜怒哀楽」と言います。なるほど現実の生活の中で人と向かい合う時にこの五区分は実際的に役に立つし、現実的にも賢い捉え方と次第に思うようになりました。これを知っていると、他人のみならず、自分の気持ちが今どのような状態にあるかも把握しやすくなります。私はこれまでの経験や訓練を通し、家族や職場の人間関係でもそうですが特に教育や医療、福祉という対人援助職にある人にはこの五区分はとても役立つと考えています(漢字にすれば「怒悲喜恐惑」となりましょうか)。五番目のものは最初の四つに分類できないものをすべてそこに入れて数えているような気がしますが、恐らくそのような受け止め方でよいのだろうと思います。

 

感情の役割:感情のエコロジー論(茂木健一郎)

 茂木健一郎という脳科学者が「感情のエコロジー(生態学)」という考え方を提示しています(『「脳」整理法』)。それは簡単に言えば、「私たちが持っている感情には厳しい弱肉強食の世界の中で生存してゆくために何らかの重要な意味があったはず。無駄なものだったとしたらそれらは残らなかったであろう。生き残るために重要な役割があればこそ、それらは長い人類の進化の中で生き残ってきた」という考え方です。これは私にとっては説得力のある、目からウロコのような説明でした。例えば「恐れ」と「怒り」。「敵」と出会った場合に私たちは瞬間的に「恐れ」のために凍りつきます(フリーズします)。その時私たちは敵から逃げるべきか(逃げられるか)踏み留まって闘うべきかを瞬時に判断しているのでしょう。「恐れ」という感情は私たちに、可能な限り「敵」との遭遇を避けて生き残るよう慎重さや賢明さを与えてくれているのです。しかし一旦それと戦おうと決断した時に私たちは自分の持てる力を最大限に発揮する必要がある。そのために「怒り」を燃え上がらせる必要が出てくる。「怒り」は「火事場のバカ力」とも言われるように私たちの潜在力を顕在化し、集中させ爆発させてくれる。そのようにして私たちは敵に対して全力で立ち向かってゆくことができるのです。相撲でもボクシングでも試合前の力士やボクサーたちの姿を見ると、あれは完全に怒っている表情であり姿ですね。他方「喜び」の感情は水源や食料を見出したときの雄叫びの感情です。また「悲しみ」は私たちが大切なものを喪失した時に深く味わう感情で、家族や親族等の「親密な共同体」を形成するために役立ちます。ノーベル賞作家の大江健三郎は南米のアンデスの民が「悲しみ」を「人生の親戚」と呼んでいることを作品のタイトルにしています。それは私たちが人生では「悲哀」と親戚付き合いをしなければならないことを示すと共に、「悲哀」を通して私たちが互いに「親戚」のように結びあわされてゆくという現実をよく言い表しています。

 

怒りの処方箋:キリストと共に十字架の「赦しと和解」の道を歩む

 私はこの「感情のエコロジー」という考え方を知るまでは、頭では「感情には良し悪しはない」と思っていても、それがなかなかストンと腑に落ちていませんでした。特に新約聖書は「怒り」や「恐れ」などの「否定的な感情」に関しては否定的に書いてあるように読めるからです。本日の「怒るな」というイエスの言葉もそうですし、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります」というパウロの言葉もそうです(ローマ12:19)。「いつも喜んでいなさい。たえず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」(1テサロニケ5:16)という言葉もよく知られています。それらは否定的な感情、特に「怒り」や「どうしても赦せない」という感情をうまくコントロールすることができないでいる私たちにはまぶしすぎるほどの言葉でもあります。

 しかし前述のように「怒り」には確かに意味があり役割がある。自分が攻撃されたと感じる時の自己防衛本能は自然なことであり当然のことでもありましょう。それは私たちに与えられた大きな生存のエネルギーを秘めています。「怒り」とは自らの弱さをかばうものなのでしょう。しかし問題は、私たちが「怒り」に容易に支配されてしまうことです。それほど「怒り」は大きなエネルギーを内に秘めていて、私たちを狂わせ、自身を見失わせてしまうということがしばしば起こります。私たちには「怒り」のゆえに気づいたら相手を傷つけてしまっていたことに後からハッとすることもあるのです。本日は「怒りの処方箋」という説教題を立てましたが、実は「怒り」と同じ一線上にはそれを乗り越えてゆく処方箋はありません。人間の力には限界がある。私たちが怒りの力を統べるためにはどうしても神の力が必要なのです。主の十字架を見上げる必要がある。

 私たちのためにこの地上に来てくださった救い主、み子イエスはご自身の生と死を通して私たちに全く異なる道を示してくださいました。それはこの世を生き残るために「闘う力を求める道」ではなく、「怒りと敵対の道」でもなく、十字架の恥と死を担うことで示された「赦しと和解の道」であり、力に頼らない「愛の道」です。殺されてしまえばそこでおしまいではないかとこの世は考えますが、イエスの復活はそれを信じる者にとっては「死は終わりではなく、墓は終着駅ではない」こと、「そこから始まる生命の道があること」を告げています。それは十字架に死んでこそよみがえって生きる道、死によっても終わることのない逆説的な愛の道です。

 主は言われます。「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる(マタイ5:21-22)。「殺すな」というモーセの第五戒に対し、ここでイエスは神の権威をもった「新しいモーセ」として「怒ること」は「殺すな」という第五戒に反することと告げているのです。否、それよりもさらに罪深い、救いようもない罪です。「怒り」とは「心の中で相手を殺すこと」だからです。これは厳しい言葉で、私たちの中には「怒ることに遅い人」はいるかもしれませんが「怒ったことのない人」はいないでしょう。これを聞くと私たちは「イエスは無茶なことを言っている。『怒るな』なんて到底無理なことだ」と反発を感じるかもしれません。逆に、自分の心の中で人を赦すことができず、自らの怒りをどうすればよいのか分からずに苦しんでいる人もいるかもしれません。主の祈りの中の「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」という祈りがどうしても祈れないという方もおられました。それくらい「赦すこと」、「和解すること」は簡単ではないのです。私たちは感情的になってついつい兄弟に対して腹を立てて「ばか者」とか「愚か者」とか言ってしまうからです。「火の地獄に投げ込まれる」以外にありません。主もそのことは十分にご存知のはずです。

 私たちは実は、そう語られた主ご自身が人々の怒りや憎悪を買って十字架で殺されてゆかれたことを知っています。人々はイエスを危険な存在として恐れてイエスを抹殺しようとしたのです。「イエスを十字架に架けよ!」そのような彼らのために十字架上でイエスは祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているか分からずにいるのです」(ルカ23:34)。このイエスの執り成しの祈りは私たちの頑なな心を打ち砕き、上から熱いものを注いでくださいます。罪人の罪を赦す神の愛は怒りや憎悪の炎よりも死よりも、何よりも強い。主の十字架は私たちを終わりのない怒りの連鎖から救い出してくれる突破口です。そこにこそ真の意味で私たちが生命を得る道、自分らしく生きる道、神の前にサバイバルする喜びと祝福の道が備えられています。

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