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2017年1月20日 (金)

2017年1月8日(日) 顕現主日礼拝説教「星のオリエンテーション/水と聖霊による洗礼」

201718日(日) 顕現主日礼拝 説教 「星のオリエンテーション/水と聖霊による洗礼」 大柴譲治

イザヤ書 60: 1- 6 / マタイによる福音書 2:1-12

「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。」(マタイ2:9-10

 

顕現日の出来事 〜東からの博士たちを捉えて放さなかった喜び

 本日は顕現主日。ベツレヘムの上にひときわ明るく輝く星を目指して遠い東の国から占星術の博士たちがはるばる訪ねてきたという顕現日の出来事を覚えています。彼らの旅は星に導かれての暗い夜の旅でした。本日のエピソードはマタイ福音書だけが伝えている出来事ですが、それは第一日課イザヤ書の預言の成就でもあります。「起きよ、光を放て。あなたを照らす光は昇り、主の栄光はあなたの上に輝く。見よ、闇は地を覆い、暗黒が国々を包んでいる。しかし、あなたの上には主が輝き出で、主の栄光があなたの上に現れる。国々はあなたを照らす光に向かい、王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む」(60:1-3)。主の栄光が輝き出た(=顕現した)のです。マタイは福音書の中でも旧約聖書からの引用が一番多くて40箇所にも渡ります。そして「・・(旧約の預言)が実現するためであった」という表現が繰り返されます(1:22, :15,17, 23, 4:14 他)。その最初に旧約聖書を結ぶ系図があることからも分かるように、そこではイエス・キリストの新約の出来事が旧約の預言の成就であることが強調されているのです。それはマタイ福音書が、マルコ福音書を基にしながらも世界を視野に入れつつ、ユダヤ人に対して、イエスこそメシヤであることを証言するために書かれたからです。そのマタイ福音書が顕現日の出来事を「主の救いの光が、(ユダヤ人以外をも含めた)すべての民の上に昇り、すべての民を照らした」として高らかに宣言していることは実に意義深いと私には思われます。

 本日は「東方からの博士たち」が主役です「彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた」9-10節)実は物語の本当の主役は、博士たちの心を溢れる喜びで満たしたその星の光と、そのオリエンテーションなのです。

 

星のオリエンテーション

「オリエンテーション」とは通常、会社のプロジェクトや学校の授業の最初に行う「方向付けのセッション」を意味します。本来そこには「オリエント」つまり「日の昇る方向」に、すなわち「東」に身を向けるという意味があります。「オリエント」は「東洋」とも訳されますが、その対語は「オクシデント」で、それは「日の没する所」という意味から「西洋」とも訳されます。通常、古来から教会は聖壇が東を向くように造られています。この大阪教会の聖壇は北を向いているようですが、聖壇が向いている方向を教会では通例として「東」と呼ぶのです。「義の太陽」(マラキ4:1)であるキリストがこの地上に降り立ってくださったことから、義の太陽が昇る方向に向かって私たちは身を向けて礼拝をするからです。方向を指し示す磁石(コンパス)が、地球の地磁気に反応してどんなに揺れ動いていても最後は必ず北を向いてピタッと止まるように、私たちの魂は神を指し示して止まるように最初から神によって造られているのです。

 「オリエンテーション」という語を詳しく調べてみますともう一つの意味があります。ハトはどんなに離れていても自分の巣に戻ってゆく「帰巣本能」を持っていますが、生物学ではその本能のことをも「オリエンテーション」と呼ぶのだそうです。私たちの魂は、聖霊のハトのように、神に向かって戻ってゆく帰巣本能を持っているのです。私たち人間の魂は「オリエンテーション」、すなわち「神への志向性」と「神への帰巣本能」を持っています。私たちは顕現主日にあたり、星の導きによって博士たちがキリストまで喜びの中に導かれたように、キリストに向かって生きる方向を定めるように呼びかけられていると思われます。

 

「東方の博士たち」が意味するもの

 聖書には東方からの博士たちの人数は記されていませんが、黄金・乳香・没薬という三つの宝の数から、彼らは三人であったと伝えられています。降誕の場面を表す人形などをよく観察してみるとこの三人は、当時知られていたヨーロッパ・アジア・アフリカという三大陸の代表として異なった三つの肌の色をした者として描かれたりもしています。また同時に彼らは、老人・壮年・青年という各世代の代表とも考えられたりもしたようですし、やがてカスパル・メルキオール・バルタザールという名前も与えられたりしたのです。それほど彼らの存在と「顕現日」は、キリスト教が世界宗教として拡がってゆく中では大切な意味を持っていたということでしょう。彼らが王に捧げた「黄金・乳香・没薬」という三つの高価な「宝」は「イエス・キリストこそが真の王であり、真の神であり、真の人間である」ことを示しているとされます。また、ある註解者の解説にはこうありました。それらの三つは、彼ら占星術の学者たちのそれまでの商売道具でもあり、それらをすべて主イエスに捧げることを通して彼らはそれまでの生き方と完全に訣別して、主にある新しい生き方を踏み出し始めたのだ、と。その後で「ヘロデのところに帰るな」という夢のお告げに従って「別の道を通って帰って行った」という表現の中にも、彼らが新しい生き方を始めたという意味が重なるように思います。

 博士たちは星の光によって導かれて来ました。星や星座の動きを読み解くという「自分の専門領域」を極めることで彼らは主イエス・キリストまで導かれて来たのです。私たちはそこに、どのような思想や宗教や立場を取っていたとしても、真理を求めて道を歩む限りにおいて、自分に与えられた務めを誠実に極めてゆく時には神がそれを祝福してすべての人を正しい道に導かれるという恵みの事実を読み取るべきなのかも知れません。星の輝き(神)が彼らを捉え、彼らを「喜び」で満たして放さなかったのです。そのことは、ヘロデやエルサレムの住人たちが抱いた、自分という存在が脅かされるのではないかという「不安と恐れ」とは対照的でした。彼らは驚きと喜びを通して新しい生き方へと招かれ、踏み出していったのです。ちょうど75歳の時に行き先を知らないでハランを出発したアブラハムと同じです(創世記12:4)。

 彼らは最初東方で星を見つけた時には大いに驚いたに違いありません。これまで見たことのない輝きをその星が放っていたからです。懸命に書物を調べ、自分たちの智恵と知識を動員してその意味を探ったに違いありません。そして遂に悟ったのです。私たちのための「真の王」が到来するのだということを。その心は喜びに満たされました。それまでの彼らの心には満たされないものがあって、真理を求めて飢え渇いていたのでしょう。その飢え渇きはただ神によってしか満たされることない「魂の飢え渇き」だったのです。

 旅の途上で思わぬことが起こります。道に迷ったのでしょうか、王はエルサレムに誕生するはずだという先入観からでしょうか、それとも神の導きによるのでしょうか、彼らは道を誤り、エルサレムの南9キロほどのところにあるダビデの出生地ベツレヘムではなくて、神の都エルサレムのヘロデ大王のところに行ってしまったのです。そこでは彼らの歩みをストップすべき「夢のお告げ」はありませんでした。一つひとつの出来事の背後には人の思いを遙かに越えた神の導きがあったと見なければならないでしょう。神の思いは人の思いと異なります。ヘロデは彼らの言葉に大いに不安をかき立てられますが、そのことを表情にも出さずに、彼は彼らの証言を旧約聖書に照らして確認するために祭司長や律法学者たちに問うたのです。すると祭司長たちはミカ書5:1のみ言葉を見出しました。ダビデの町ベツレヘムにその王はお生まれになるということを。星の導きと聖書のみ言葉による導きがそこでは繋がります。しかし、ヘロデにも祭司長たちにも律法学者たちにもその星の光もみ言葉の光も見えなかった。否、彼らはそれを見ようとしなかった。自分のことしか考えていなかったから光を恐れたのです。彼らの心は頑なで、彼らの目は曇らされていました。ここに私たち人間の持っている深い「闇」(『スターウォーズ』的には「ダークサイド」と呼びうるでしょうか)が記されています。しかし光は与えられ、闇の中で輝いています。ヨハネ1:5はこう告げています。「闇はこれを理解しなかった」(新共同訳)、「闇はこれに勝たなかった」(口語訳)。疑心暗鬼になったヘロデの闇は、ベツレヘムと周辺の2歳以下の男の子をすべて殺すという狂気に走らせました。ヘロデ自身の二人の息子もそこで一緒に殺されたという聖書註解者もいたくらいです。なんとおぞましい人間の性(さが)でしょう。

 私たちは星の光に捉えられて大きな喜びに満たされた博士たちに倣いたいと思います。神がその独り子を賜るほどにこの世を愛してくださった。だからそれに応えて、私たち自身も自身を主への供え物(宝物)として捧げたいのです。この愛の喜びが私たちを捉える限り私たちは大丈夫。この光を見上げる限り私たちは安心です。なぜなら、水と霊によるキリストの洗礼と聖餐が私たちを喜びの中に捉えて放さないからです。

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