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2017年1月29日 (日)

2017年1月29日(日)顕現節第四主日礼拝説教「天職(ベルーフ)」

2017129日(日)顕現節第四主日礼拝説教 「天職(ベルーフ)」  大柴 譲治

マタイによる福音書 4:18-25

イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。18-20節)

 

神の御声

 教会」とは、日本語では「教える会」と書きますが、ヘブル語(「カーハール」)でもギリシア語(「エクレシア」)でも元々は「呼び集められた者たち(の群れ)」という意味です。無教会は「集会」と呼びますが、その方が原義に近いかも知れません。「キリストによって呼び集められた者たちの群れ」、それが「キリスト教会」なのです。聖書の中には神が繰り返し名前を呼んで、ご自身の働きのためにその僕(しもべ)たちを呼び出す場面が出て来ます。アブラハム然り、モーセ然り、サムエル然り、イザヤ然り、エレミヤ然り、パウロ然り。本日の四人の弟子たちもそうです。神は声をもって人間に呼びかけてくださるお方なのです。そして私たちも同じです。人生の中で、召命のかたちは個々に異なるかも知れませんが、人と人との出会いを通して、また出来事を通して、聖書を通して、私たちもまた神/キリストご自身によって呼び出され、ここまで導かれて来ました。神がイニシアティブをもって私たちに声を掛けてくださった。そこから物語は始まります。

 これは私の想像であり仮説なのですが、もし私たちがやがて天国で神さまの前に立つことが許されそのみ声を直接お聞きする時が来たとしたら、私たちはそこでどのような気持ちになるのだろうかと思います。私自身はこれまで直接神の声を聞いたことはないのですが、そこではおそらくその声を初めて聞くような気がしないのではないか。その声は、私たちが既に知っていて、これまでの人生の中で私たちが繰り返し聞いてきたとても懐かしい声として響くのではないかと想像しています。パウロの言うように、母の胎内にいる時から神は私たちに呼びかけてくださってきたのです。『われとなんじ』という書物を書いたマルティン・ブーバーというユダヤ人の思想家がいます。詩人でもあり、教育者でもあり、旧約聖書学者でもあった人ですがブーバーは言います。「われとなんじ」という人格的な出会いの延長線上に私たちは「永遠のなんじ」たる神を垣間見ることができる、と。ブーバーによると、神は私たちに具体的な人と人との出会いを通して呼びかけてくださっているのです。私たちは自分の魂の根底に自分にとって大切な人たちの声を記憶しています。親や祖父母や兄弟や恩師や親友や、それは私たちに真剣に向かい合ってくれた人々の声の記憶です。実はその声の一番奥底には、通奏低音のように、いつも神の声が重なって響いていたのだと私は想像しています。ですから私たちがもし天国に入ることが許され神さまの声を直接聞くことができる時が来たら、そこでは懐かしい声を聞くことができるのではないかと私は想像をたくましくしているのです。

 本日は最初の四人の弟子たちの召命の出来事です。彼らは漁師でした。「召命」という語もキリスト教用語ですが、それは「命に召し出される」と書きます。特別な「使命(ミッション)」に召し出されることです。英語で言えば「call」という語になります。つまり呼び出されることです。ドイツ語では「Beruf(ベルーフ)」。「ベルーフ」とは「神に呼び出されること」を意味します。そこから転じて「職業」や「天職」のことをも指すようになりました。確か以前には『ベルーフ』という職業に関する雑誌も出版されていたと思います。ちなみにインターネットで調べてみたら、早瀬勇という方の『ベルーフ/職は神様の思し召し』という本がありました。その通りだと思います。人生の中で自らの天職を見出すことができた人は幸いであると言わなければならないでしょう。そのような意味ある仕事や生活を私たちはしたいと心から願っているからです。

 イエスが弟子たちを「わたしに従って来なさい。あなたがたを人間をとる漁師としよう」と呼ばれた召命の出来事から私たちは、主が私たち一人ひとりに「あなたはわたしの後についてきなさい」と呼びかけ、一人ひとりにふさわしい「天職」を備えてくださっていると信じます。自分に与えられた天職とは何であるのかを私たちは見出そうとしているのです。別の言い方をすれば、今私たちが従事している仕事が、どのようなかたちで神によって意味を賦与され、神の天職として用いられてゆくのかということでありましょう。

 

「天職(ベルーフ)」としての信仰

 本日は福音書の日課には、イエスが四人の漁師を弟子とされる場面が記されています。ペトロとアンデレ、ゼベダイの子ヤコブとヨハネという二組の兄弟です。彼らはガリラヤ湖で小さい頃から働いていたプロの漁師でした。この場面の背後にはエレミヤ書16:16の言葉があるのかもしれません。エレミヤ書にはこう記されています。「見よ、わたしは多くの漁師を遣わし、人々を釣り上げさせる、と主は言われる」と。

 主は彼らに言われました。「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と。すると、ペトロとアンデレの二人は「すぐに網を捨てて従った」とあります。彼らは「網を打っていた」、つまり漁をしている最中であったにもかかわらず、主イエスの呼びかけに答えて「直ちに」大切な道具である「網」を捨てて従ったのです。サラッと書いてありますが、何かとても大切なことのように思われます。イエスさまのその招きの言葉は漁師であった彼らの心にとても響いたに違いありません。

 別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネの場合も同じでした。彼らが父親のゼベダイと一緒に舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、主イエスは彼らをお呼びになったのです。「この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った」22節)とあります。ここで強調されているのは「すぐに」ということです。待ったなしなのです。それほど切羽詰まった緊急性があったのでしょうか。

 むしろ、私たちは主イエスの声の中に揺るぐことのない権威、抗うことのできない声の力があったと見るべきなのかもしれません。もちろん、主イエスの声が、彼らの中の、魂の奧深いところにある生きることについての葛藤や疑問など、実存的な問いに対して働きかけたという面もあったに違いありません。彼らはナザレのイエスの評判を予め聞いていたということは狭いカファルナウムの漁師町ですから、当然ありえたことでしょう。「悔い改めよ、天の国は近づいた」という、領主ヘロデに捕らえられた洗礼者ヨハネからバトンを受け継いで宣教活動を始められた主イエスです。きっと新規の目で捉えられていたに違いありません。そのようなイエスですから、人々から大きな期待を持たれていたとしても不思議はありません。そんなお方が自分たち兄弟に声をかけてくださったばかりか、「わたしに従ってきなさい」と弟子入りを許して下さったのです。彼らは大きな驚きと喜びに包まれたのではなかったかと思います。主イエスの権威ある言葉とそれに直ちに服従する二組の青年漁師たち。彼ら四人は後にイエスに従う者たちすべての代表でもありました。彼らは主イエスに従うことで、それまでとは全く違う、新しい喜びの生へと足を踏み入れていったのです。

 このイエスの確かな声が、ペトロたち四人の漁師だけでなく、それから二千年も後の時代の、この日本に生きる私たちをも捕らえています。主は、私たちが教師であれば「あなたを真の人間教育をする教師としよう」とおっしゃってくださったでしょうし、私たちが主婦であれば「あなたがたを(家庭を通して)真の人間を育てる主婦としよう」、会社員であれば「あなたがたを人と社会に役立ち、そこに仕える会社員としよう」と言ってくださったことでしょう。大工であれば信仰の共同体を建てる大工に、農夫であれば福音の種を蒔く真の農夫に、医療や福祉のような対人援助職に従事していれば真に人間を生かす援助職としようと言ってくださっているに違いないと思います。そのように考えることで私たちは、今ここで私たちが携わっている職業や役割、持っている財産などが主イエスの声によって祝福され、聖別されているということを知らされるのです。前述のようにドイツ語で「天職」を意味する「ベルーフ」がそのまま「仕事」という意味になる通りです。そのような主の確かなみ声を心に響かせながら、新しい一週間を共に踏み出してまいりたいと思います。お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。アーメン。

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