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2017年1月20日 (金)

2017年1月15日(日) 主の洗礼日礼拝説教「存在是認の天の声」

2017115日(日) 主の洗礼日礼拝 説教「存在是認の天の声」      大柴 譲治

イザヤ書 42: 1- 7 / マタイによる福音書 3:13-17

「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」(マタイ3:16-17

 

主の洗礼日の出来事

 本日は主の洗礼日。主イエスが洗礼者ヨハネからヨルダン川で洗礼を受けたことを記念して礼拝を守っています。本日の主題は、先ほどの特別の祈りにもあったように、主イエス・キリストの洗礼を通して、私たちにとって洗礼というものが持つ意味を悟るためです。私たちは先ほどこのように祈りました。天の父なる神。あなたはヨルダン川でイエス・キリストに聖霊を注いで、『わたしの愛する子』と言われました。み名による洗礼によってあなたの子どもとされた私たちが、み心に従って歩み、永遠の命を受ける者となるようにしてください。私たちの主イエス・キリストによって祈ります。アーメン」。この祈りの通りです。天からの「わたしの愛する子」という声は、実はイエスのみならず私たち一人ひとりに対して告げられている天(=神)からの存在是認の声なのです。洗礼を受けるということは、そして聖餐を含めて私たちが毎週サクラメントに与ることができるということは、このような神からの「I Love You」という私たち自身に対する根源的な「恩寵義認」(江口再起)の声を、存在是認の声を聴き続ける、受け取り続けるということなのです。

デンマークの実存主義哲学者であったセーレン・キルケゴールはこう言いました。「聖書は神さまからのラブレターである」と。「どのページを開いても、そこから神さまの『I Love You』という確かな声が響いてくるのだ」と。確かに私たちは永遠のベストセラーである聖書を様々な次元で読むことができるでしょう。歴史書として読む人もいるでしょうし、文学書として読む人もいることでしょう。格言や智恵の書として読むこともできます。どのような読み方も可能ですし、それぞれに味わい深いものがありますが、私たちキリスト者は聖書を「神さまからのラブレター」として読んでゆく。そのような読み方が大切であります。「神はその独り子を賜るほど世を愛された。それは御子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)。その意味で本日の箇所はまさにそのような神の愛を明確に証ししている箇所でもあります。もう一度マタイ3:16-17をお読みしてみましょう。そこにはこうあります。「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。

よく読むと天からの声がしただけではない。そこでは三つのことが連続して起こっています。第一に、天がイエスに向かって開く。第二に、イエスは神の霊がハトのように自分の上に降ってくるのを見た。そして第三に、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が天から響いたのです。「天」とは「神のおられる場」を意味しています。ちなみにマタイ福音書では、「神の国」という表現は5回しか使われておらず、「天の国」は32回も用いられています。マルコとルカは逆に一度も「天の国」という表現は用いられていません。それぞれの編集の視座が異なっているからでしょう。マタイにはユダヤ人たちのためにこの福音書を書いています。旧約聖書から伝わる「天」という伝統的な言葉に深い思い入れがあると思われます。

 このイエスの洗礼の記事は、マルコ福音書1章にもルカ福音書3章にも並行記事があります。同じ出来事が三つの福音書(共観福音書)に記録されているのですが、若干ニュアンスが違っていたりします。例えばマタイでは天からの声は「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と声はこの世に対して宣言していますが、マルコとルカでは「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」とイエスご自身に語りかけています。「キリスト」とは「メシア」すなわち「(特別な使命のために)神によって油を注がれた者」という意味ですが、この洗礼の出来事が神によって水と霊という油を注がれた出来事であったと位置付けられているのです。「イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けること」は、ヨハネには最初意味が分からずそれを押しとどめようとしましたが、実は「神が定めた正しいこと」であり「神が私たちの救いのために備えたふさわしいこと」であったのです。イザヤ42章はこう預言しています。見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。彼の上にわたしの霊は置かれ、彼は国々の裁きを導き出す。彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。3 傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく、裁きを導き出して、確かなものとする。4 暗くなることも、傷つき果てることもない、この地に裁きを置くときまでは。島々は彼の教えを待ち望む。」(42:1-4

 

(参考までに並行箇所を挙げておきます)

 マルコ1: 10-11

水の中から上がるとすぐ、天が裂けてが鳩のように御自分に降って来るのを、御覧になった。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 ルカ3:21-22

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 

サクラメントの恵み〜存在是認の天の声

 さらにイザヤ書42章はこうも告げています(6-7節)。「主であるわたしは、恵みをもってあなたを呼び、あなたの手を取った。民の契約、諸国の光として、あなたを形づくり、あなたを立てた。見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために。

 私たちにとって「洗礼」とは、そして「聖餐」とは、すなわち「サクラメント(聖礼典/恵みの手段)」とは、このような私たち自身に対しての「天からの存在是認の声」、「神からの恩寵義認の声」を聴き取ってゆくために与えられていると私は信じます。その時に、サクラメントにおいて、イエスさまの場合がそうであったように、天が私たちに向かって開け、ハトのように聖霊が自分に降り、天からの声が響いてくるのですから。そしてその声をもってイエスは、その直後に荒野へと押し出されてゆきます。荒野での4040夜に渡る試練の時を経験するのです。しかしどのような時にもこの天からの声がイエスを支え続けました。天の父なる神との地上の神の独り子との信頼関係は揺らぐことがなかったのです。十字架への歩みをする時にも、イエスは天からの声を確認し続けました。だからこそイエスは、「傷ついた葦をおることなく、暗くなって行く灯心を消すことのない」慰め主、救い主メシアとしての道を全うすることができたのです。

 今日も私たちは聖餐式に招かれています。天から声によって支えられながら、私たちも新しい一週間を踏み出してまいりましょう。お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますように。アーメン。

 

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