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2017年1月20日 (金)

2017年1月1日(日)降誕後主日(元旦)礼拝説教「千年を視野に入れて今を生きる」

201711日(日) 降誕後主日(元旦)礼拝 説教「千年を視野に入れて今を生きる」  大柴 譲治

コヘレトの言葉3:1-13 / ルカによる福音書2:1-21

「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない。」(コヘレト3:11

 

主の年2017年を迎えて

 新年、あけましておめでとうございます。ご一緒に新年を迎えることができましたことを神さまに感謝いたします。本日が教会への初詣となります。皆さまは様々な思いをもってこの場所に足を運ばれたことでしょう。今年は大阪教会にとっても「宣教百年」の節目の年となりますし、ルーテル教会にとっては「宗教改革500年」という節目となります。個人的には私自身も「還暦」という節目を迎えます。ざっと数えてみると教会員に酉年生まれの方は17人ほどおられるようです。どのように月日の節目を迎え、どのようにそれを超えて前に向かって進んでゆくのか、私たち一人ひとりが問われているように思われます。

 「一年の計は元旦にあり」と申します。11日という節目の日を迎えて、改めて私たちはこの教会に集い、「主日礼拝」をもって新しい主の年である2017年を始めました。創世記によると、すべての人間は「神のかたち」に造られています。それは、神との真実な人格的な応答関係に生きるように私たちが最初から造られているということです。聖書によれば、神との関係抜きには私たちの「幸い(幸福)」はありません。よく知られているように西暦の「紀元A.D.」という表記は「anno domini」(主の年)というラテン語の略記ですし、「紀元前(B.C.)」とは「Before Christ」の略記です。これこそが私たちの生(Life=生命/人生/生活)の原点なのです。詩編は歌います。「ハレルヤ。わたしの魂よ、主を讃美せよ。命のある限り、わたしは主を讃美し、長らえる限り、わたしの神にほめ歌をうたおう」(142:1-2)。詩編全体の中には「ハレルヤ詩編」と呼ばれる群れがありますが(113-118編、136編、146-150編)、「ハレル」とはヘブル語で「讃美する」、「ヤー」とは「ヤーヴェ」すなわち「神」のことです。詩編102:19には次のような印象的な言葉も記されています。「後の世代のためにこのことは書き記さねばならない。『主を讃美するために民は創造された』」

 ルカ2:21にあるように、本日は主の命名日。天使に示された「イエス」という名は、ヘブル語では「ヨシュア」または「イェホーシュア」となり、「ヤーウェ(主なる神)は救い」という意味です。神はどのような時にも私たちと共にいます「インマヌエルの神」「神こそわが救い」と告白して私たちは新年を始めるのです。

 

神から与えられている「永遠を思う思い」(=私たちの魂)

 本日の第一日課はコヘレトの言葉3章の言葉です。この書は長く「伝道の書」と呼ばれ、「空の空、空の空、いっさいは空である」という極めて東洋的な響きのする口語訳聖書の訳でよく知られていました。新共同訳聖書では「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」となっています。ここで「空」とか「空しさ」と訳されている言葉はヘブル語で「ハベル」。「ため息」「儚さ」を現す語で、創世記4章で兄のカインから儚くも殺されてしまう弟アベルの名前はこの語から来ています。「この世の人間の現実を見ると空しいことばかりで、出るのはため息ばかりなり」ということになりましょうか。コヘレト(集会の招集者のこと)は生きることの意味を深く探しながらも、死の前ではすべてが儚く無意味でしかないのではないかと読者に鋭く問いかけているのです。しかしそのような中で3章だけは、全体が「空の空」というどこか短調的な暗い響きの中で反復されるにもかかわらず、この部分には長調に転調したように明るく感じる異なった響きがあります。ここでコヘレトはまっすぐに神の御業を見上げています。信仰の眼差しをもって神の御業を見上げる時、そこには神の時があり、決して空しくならない次元が開かれてくるのだと彼は洞察しているのです。

 「何事にも

(

クロノス

)

があり、天の下の出来事にはすべて定められた

(

カイロス

)

がある。・・・ 神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」
31節と11節)。口語訳聖書では11節は次のようになっていました。「神のなさることは皆その時に適って美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなさるわざを初めから終わりまで見きわめることはできない」。これは私自身が疾風怒濤の学生時代、20歳の頃に大きく支えられたみ言葉でした。「一切は空である中で決して空にならないものがある。それは神の備える麗しい時である」というこのみ言葉の中に、ともすれば刹那的で無方向で、虚無的な生き方に陥りがちな青春時代に私自身は希望の光を認めることができたのでした。このみ言葉が私の目を開き、神のなされる御業の中に真の美を認め、それを感じ取ることができる、そのような次元があることを教えてくれたのです。

 それもこれも、私たちの中には最初から「永遠を思う思い」が神から与えられているからです。美しい花が目の前にあってもそれを美しいと感じる心がなければ、私たちはその花と出会うことはできません。それと同様、永遠を思う思いが最初から私たちに与えられているからこそ、私たちは、自らの小ささや有限性、死すべき身体にもかかわらず、偉大なるもの、無限なるもの、永遠なるものを求めることができるのです。

 

「千年を視野に入れて今を生きる」(故相馬信夫カトリック名古屋教区司教)

 1992年に開かれた第1回「ヒロシマ宗教者平和会議」に参加した時のこと。1991年に湾岸戦争が勃発し、自衛隊機の派遣に反対して民間機をチャーターして日本人の輸送をしようという募金運動が「カトリック正義と平和協議会(正平協)」のイニシアティブで行われ、大きな社会的なうねりとなりました。その時の正平協の委員長が故相馬信夫カトリック名古屋教区司教でした。1993年熊本で開かれたJELC宣教百年記念大会でもゲストスピーカーとして相馬司教は熊本に来てくださったのでお覚えの方もおられましょう。

 相馬信夫司教はヒロシマで開かれた宗教者平和会議で開口一番こう言われたのです。「宗教者・信仰者というものは、2030年のスパンで物事を捉えているだけではいけません。一千年を視野に入れて今を生きなければならない」。この言葉に私は度肝を抜かれました。そのスケールの大きさに目からウロコが落ちるような衝撃を受けたのです。「一千年を視野にいれる」など私はそれまで一度も考えたこともありませんでした。旧約聖書には確かに二千年を超えるイスラエルの歴史が大河ドラマのように記されています。アブラハム・イサク・ヤコブの父祖たちの時代は恐らく紀元前二千年前後ではなかったかと推測されていますし、モーセの出エジプトの出来事は紀元前千三百年前後ではなかったと推測されます。今から数えると、紀元前二千年というのは四千年も前になります。考えてみると気が遠くなるような昔ですね。

 聖書には「千年」という語が何度も出て来ます。たとえば詩編90:4千年といえども御目には、昨日が今日へと移る夜の一時にすぎません」。コヘレトの言葉6:6にもこうあります。たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福でなかったなら、何になろう。すべてのものは同じひとつの所(死)に行くのだから」。2ペトロ3:8愛する人たち、このことだけは忘れないでほしい。主のもとでは、一日は千年のようで、千年は一日のようです」。聖書は神の救済の歴史を「千年を視野に入れて見ること」を脈々と伝えているのです。ですから先の相馬司教の言葉も確かに聖書に根拠が置かれた言葉ということになりましょう。長いスパンで、神の救いの歴史を私たちの視野に入れて今を生きなければならないということです。それは同時に、この地球上で起こることはすべて神の御手の内に置かれているという信仰の告白でもあり、その中で自分に与えられた使命を果たしてゆくということでありましょう。新年に当たり私たちはこの言葉を心に刻みたいのです。

 しかしよく考えてみると「千年を視野に入れて今を生きる」とは具体的に何を意味しているのかは分かりません。詩編90編が歌っているように、私たちの生涯は「せいぜい70-80年、長くても90-100年」です。人の仕事ができる生涯をたとえば40年と考えると、「千年」25世代分の長さです。無名の陶芸職人たちが残した歴史を超えた作品や、バッハやモーツアルト、ベートーベンやブラームスなどの時代を超えた音楽作品をも思い起こします。今年は宗教改革500年の節目の年ですが、まだたった500年です。私たちは長いスパンで神の救いの歴史を捉えてゆく必要がある。歴史がすべてを審判するのでしょう。私たちは置かれた場で、神の御旨に適った、歴史を貫いて(あるいは超えて)ゆく働きに参与するように召し出されているのです。それを「天職」と呼びます。神から天職を賜った人は幸いです。有限な私たちが永遠なるものにあこがれるのは、私たちの中に神から「永遠を思う思い(=魂)」が与えられているからです。私たちを平和の道具として用いてくださる神の恵みの御業を覚えつつ、ご一緒に新しい一年を踏み出してまいりましょう。

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