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2017年1月20日 (金)

2016年12月25日(日) クリスマス聖餐礼拝説教 「天と地の接点」

20161225日(日) クリスマス聖餐礼拝 説教 「天と地の接点」  大柴 譲治

イザヤ書527節〜10

「いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、と、シオンに向かって呼ばわる。」(7節)

ヨハネによる福音書11節〜14

 「初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。」(1-5節)

 

メリークリスマス!

 クリスマスおめでとうございます。Merry Christmas!この「メリークリスマス」の「メリーmerry」とは本来「陽気にする」「快活にする」「明るくする」という語義を持つ語です。そしてそれは互いに相手に対する挨拶という次元だけではなく、クリスマスの出来事、それは私たちの救い主、主イエス・キリストが二千年前のあの日に、ベツレヘムにお生まれになったという出来事ですが、それを指し示し、分かち合っている挨拶でもあります。クリスマスの光の中で、互いに相手を祝福している言葉なのです。クリスマスは、闇の中、深い闇の淵(どん底)に生きていた私たち人間に、神からの救いの光が届いたという出来事です。その光が私たちにもたらす「陽気さ」「快活さ」「明るさ」、それを慰めと喜びと希望と言い換えることもできましょうが、この世の闇がどれほど深くても、それが支配的に見えたとしても、決して揺るぐことのないものです。光は闇の中に輝き続けているからです。この光はやがて必ず闇に勝利すると約束されています。だから私たちは、キリストを見上げることを通して、どのような時にも、たとえ私たちを取り巻く状況がアンハッピーなものであったとしても、「ハッピークリスマス」ではなく(そのような言い方もありますが)、「I wish you a Merry Christmas(あなたがよきクリスマスを迎えることができるようにお祈りしています)」と互いに祝福の挨拶を交わすことができるのです。私たちは喪中の方には年賀状を送るのを控えますが、クリスマスカードだけはどのような時にも相手に対する祈りと共に互いに交換することができます。それは本日の第一日課であるイザヤ書527節が告げている通りです。いかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え、救いを告げ、あなたの神は王となられた、と、シオンに向かって呼ばわる」。「福音」とはGood News、「喜びの音信」のことです。

 

「教会(エクレシア)」〜キリストに呼び集められて「神の家族」とされた者の群れ

 私は大阪での初めてクリスマスを迎えています。新しい気持ちで皆さまとご一緒にこの日を迎えることができることを心から神さまに感謝したいと思っています。考えてみれば、教会の交わりというのは実に不思議なものです。地縁でも血縁でもありません(それもあるかもしれませんが)。それは、聖霊によって結びあわされた「聖霊縁」、キリストによって「わたしに従ってきなさい。あなたがたを人間をとる漁師としよう」と呼び集められた「キリスト縁」とも呼ぶべき「神の家族」としての交わりです。それもこれも二千年前に、み子イエス・キリストがこの地上に降り立ってくださったから、お生まれになられたからこそ、このような「信仰共同体」が形成されることになったのです。以来二千年に渡って教会は、時がよくても悪くても、「宣教共同体」として全世界に福音を宣べ伝えてきました。これまたいかに美しいことか、山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は」と告げられている通りです。イザヤ52:7-10にある通り、福音信仰の基調音は「喜び」であり「祝祭」です。「主は聖なる御腕の力を、国々の民の目にあらわにされた。地の果てまで、すべての人が、わたしたちの神の救いを仰ぐ」52:10)。

 

聖書における二つの「初めに」

 聖書には「初めに」という書き出しで始まる二つの大変にダイナミックな響きのする箇所があります。一つは旧約聖書・創世記の冒頭部分であり、もう一つは本日の福音書の日課であるヨハネ福音書の冒頭部分です。それらは私の中では、相互に響き合い補い合って対応していると思われます。福音書記者ヨハネが「初めに」と書いたときには、明らかに創世記の「初めに」を意識して、それに重ね合わせて書いていると私には思われるのです。

 

1 初めに、神は天地を創造された。2 地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。3 神は言われた。「光あれ。」こうして、光があった。4 神は光を見て、良しとされた。神は光と闇を分け、5 光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた。夕べがあり、朝があった。第一の日である。

 

1 初めに言(ロゴス)があった。言は神と共にあった。言は神であった。 2 この言は、初めに神と共にあった。 3 万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。 4 言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。 5 光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。

 

 この二つの「初めに」とは、「太初に」「万物の始まる前に」「存在のすべてに先立って根源的に」「すべての存在を貫いて根源的に」という意味を持つ言葉であると私は受け止めています。

 初めに、神は天地を創造されたのです。その時に、地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていました。ここは「神の暴風が吹き荒れていた」とも訳せる部分です。混沌であってもエネルギーが充ち満ちている状態だったということなのでしょう。そのような中にあって神は言われました。「光あれ。」するとそのようになったのです。

 私はヨハネ福音書の冒頭を、「光あれ」という声を発することによって神は天地創造の御業を始められたのですから、「言」を「声」と読み替えて理解しています。ここで「言」と訳されているギリシャ語は「ロゴス」という語ですが、そこには「法則性」とか「理法」という意味と並んで、「声」とか「発声・発音されたもの」いう意味もあるからです。最近の脳科学の研究によって分かってきたことは、私たちは言葉を声に乗せて理解しているということです。相互に声を出しての対話などやり取りの場合はもちろんですが、私たちが一人で黙って本を読んでいる時も、沈思黙考している時にも、頭の中では声が響いているのです。基本的に「言葉」というものは「声」という「車」に乗って、「器」に容れて運ばれてゆくからです。実は声を伴わない言葉というものはありません。

 「光あれ」という神の声には力があります。この闇に響く声こそ私たちの希望です。この声こそがどのような暗黒の闇の中にあっても私たちを光で照らし、私たちを守り導くのです。 メリークリスマス!

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