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2017年1月17日 (火)

2016年12月18日(日)待降節第4主日礼拝説教「その名はインマヌエル」

20161218待降節第4主日礼拝 説教「その名はインマヌエル」        大柴 譲治

イザヤ書7:10-16マタイによる福音書1:18-25

「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。 」(マタイ1:23。イザヤ7:14参照)

 

インマヌエルの神

 待降節(アドヴェント)第四主日です。ローソクが遂に四本点されました。いよいよ時充ちて、来週がクリスマスです。本日は、イザヤ書の「インマヌエル」という預言が幼子イエスにおいて成就することが日課として告げられています。「インマヌエル」とは「神が我々と共におられる」という意味のヘブル語です。興味深いのは天使による受胎告知は、ルカ福音書では母マリアに対してなされますが、マタイ福音書では父ヨセフに対してなされているということです。神が人となってこの地上に誕生するという人間の理解を遙かに超えた神秘的な出来事がイエスの父と母とに別々に示されてゆくのです。マリアもヨセフも自分たちの理解を超えた神の不思議な御業の前に沈黙し、それに頭を垂れて服従してゆきます。婚約者マリアが妊娠したことを知って、「夫ヨセフは正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心した」とありますから(19節)、ヨセフは独りで悩み苦しんだに違いありません。すると主の天使が夢に現れて言いました。「ダビデの子ヨセフ、恐れず妻マリアを迎え入れなさい。マリアの胎の子は聖霊によって宿ったのである。マリアは男の子を産む。その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」20-21節)。イエスは聖霊によって宿った!? 神が人となってこの地上に降り立つ(受肉のキリスト)という人の思いを遙かに越えた神秘は、こう語る他になかったのだと私は思います。

 先週の日曜日の午後、いずみホールで開かれたシュッツ合唱団のコンサートに行ってきました。今週23日(金)16時からこの大阪教会でもクリスマスコンサートが行われますが、ブルックナーのミサ曲やバッハの管弦楽組曲、そして最後は3曲のクリスマスキャロル(讃美歌)、アンコールにヘンデルのメサイアからハレルヤコーラスと、実に生き生きとしたすばらしい音楽の捧げ物でした。ルターは「讃美歌は会衆の説教」と呼びましたがその通りです。二千年前のクリスマスの出来事があればこそ、このようなすばらしい信仰の音楽が誕生したのだと改めて実感させられました。一番闇が深い中に神から救いの光が到来した。そしてその光は闇の中に輝き続けています。どのような時にも神は常に「インマヌエル(われらと共にいます)の神」です。だからこそ、どれほどこの世の闇が深くても、私たちは決して絶望することなく、救い主の到来という星の光を見上げながら、天から響いてくる天使たちの歌声に加わってゆくことができるのです。

 

「強、火を付けろ」〜共生と共死の覚悟

 「命がけの愛」というものがあります。自分の生命を賭けても大切な者を守ろうとする愛です。しばらく前のことですが、読売新聞の第一面の「編集手帳」に紹介されていたエピソードが目にとまりました。そこには七年間も引きこもりを続けていた20歳の青年が自宅で自らガソリンをかぶり火をつけて死のうとする場面が示されていました。咄嗟にその子の父親が後ろから息子にしがみついてこう叫ぶのです。「強、火をつけろ。私も一緒に死ぬから」(森下一『「不登校児」が教えてくれたもの』、グラフ社、2000)。新聞はこう伝えていました(20001029日付)。

 

「斎藤強君は中学一年の時から不登校になる。まじめで、ちょっとしたつまずきでも自分を厳しく責めた。自殺を図ったのは二十歳の春だった◆ガソリンをかぶった。精神科医の忠告で彼の行動を見守っていた父親は、その瞬間、息子を抱きしめた。自らもガソリンにまみれて叫ぶ。『強、火をつけろ』。抱き合い、二人は声をあげて泣き続けた◆一緒に死んでくれるほど、父親にとって自分はかけがえのない存在なのか。あの時生まれて初めて、自分は生きる価値があるのだと実感できた。強君は後にこの精神科医、森下一さんにそう告白する◆森下さんは十八年前、姫路市に診療所を開設、不登校の子どもたちに積極的に取り組んできた。彼らのためにフリースクールと全寮制の高校も作り、一昨年、吉川英治文化賞を受賞した◆この間にかかわってきた症例は三千を超える。その豊富な体験から生まれた近著『「不登校児」が教えてくれたもの』(グラフ社)には、立ち直りのきっかけを求めて苦闘する多くの家族が登場する◆不登校は親への猜疑心に根差している。だから、子どもは心と身体で丸ごと受け止めてやろう。親子は、人生の大事、人間の深みにおいて出会った時、初めて真の親子になれる。森下さんはそう結論する。」

 

 生命を賭けて息子を守ろうとする父親の必死の思いが伝わってきます。しかしその背後には、七年にも渡る不登校の息子に対する一貫した忍耐強い愛があることを見落とすことはできません。強君のご両親と森下さんは中学校一年生の時から、つまり13歳から20歳までの7年間、子どもと共に苦しみ、子どもと共に呻き続けたのです。そのようなプロセスがあればこそ時宜を得て、そのような親子愛が伝わったのだと思います。森下一さんは言います。「共生の思想は共死の思想に裏打ちされていなければならない」と。

 そしてこの本には、「共死の思想」こそが「共生の思想」を支えるという宗教学者の山折哲雄さんの言葉が出てきます。「強、火をつけろ。一緒に死ぬから」と言って、どん底でそのようにヒシと息子を抱きとめる親の愛。そのような共死の覚悟をもった絆の中で初めて人は自分が愛されている、自分はそのような愛に生かされているのだということに気づかされてゆくのです。強君にとってはそれまでも変わることなく自分に注がれてきた親の愛情が、20歳の時、20年かかって、その瞬間に初めて本当に自分のものとして自覚されたのです。私はそのお父さんの覚悟の深さと共に、7年間も諦めずにずっと強くんに寄り添い関わり続けてきたご家族や精神科医、周囲の人々の忍耐強さにも心を動かされるのです。人生には自分が愛されているということがストンと分かる決定的な瞬間がある。私たちにはそのような愛を実存のすべてを賭けて相手に伝えてゆくべき瞬間があるのです。愛とは共に死ぬ覚悟をもって共に今ここを生きることなのでありましょう。

 山折哲雄さんはこう言います。「『共生』だけでは、私は人生観としても宗教観としてもきわめて不完全なものだと思います。なぜならそこには、生きることだけに執着するある種のエゴイズムの匂いを感ずるからです。『共生』という思想は『共死』の思想に裏づけられてこそ、はじめて本物になるのではないでしょうか。・・・共に生き、共に死ぬということがあってはじめて人間の成熟した人格形成が可能になるという人間観が抱かれるようになったのです。その意味において『共死』という観念抜きの『共生』論はきわめて一面的なものではないかと思うのです」。

 

「その名はインマヌエル」

「インマヌエル」(神われらと共にいます)ということに思いを馳せる時、私は時々、この斎藤強くんとお父さんのエピソードを思い起こします。あのキリストの十字架の出来事は、絶望的になって自らガソリンをかぶって滅びようとしている私たちを後ろからガシッと抱きとめてくださったキリストの、共死の覚悟に裏打ちされた共生の愛を現す出来事なのだと思います。「わたしがあなたと共にいる。わたしがあなたと一緒に死ぬ。いや、わたしがあなたの代わりに死ぬから、あなたはわたしの代わりに生きよ」と言って主は私のために十字架に架かってくださった。ここに真の愛がある。あの十字架は手をいっぱいに広げて私たちを抱きとめようとするキリストの姿を現しています。それは、天地万物が揺らぐとも決して揺らぐことのない神の全き愛、無私(アガペー)の愛です。もし私たちが悔い改めの涙を流しながら「生きていて本当によかった」と感じることができる場があるとすれば、それはこのような神のアガペーの愛に強く捉えられた時なのだろうと思います。そのような「共死の覚悟に裏打ちされた」キリストの愛が私たちを捉えて離さない。この愛によって私たちは生き、この愛によって私たちは死んでよみがえり、この愛によって必ず死を超えた永遠の命に生きるのです。私たちのところに近づいてきてくださる主キリストのご降誕とご再臨とを共に待ち望みましょう。どこにあっても、いついかなる時にも神我らと共にいます。その名はインマヌエル、アーメン!

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