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2016年12月 5日 (月)

2016年9月4日(日)  聖霊降臨後第16主日礼拝説教「自分の十字架を担う」

201694日(日)  聖霊降臨後第16主日礼拝 説教「自分の十字架を担う」    大柴 譲治

ルカによる福音書14:25-33

「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない。」14:27

 

群衆の期待と主イエスの自覚

 本日の福音書の日課では、大勢の群衆が後ろに付いてくるのを主イエスは「振り返り」ながら、厳しい言葉で「弟子たる者の心構え」を語っています。主は十字架に向かって既に歩みを始めていますが、群衆たちは主イエスがあのダビデ王のように権威ある「イスラエルの王」として、神に油注がれた「力あるメシア」として、イスラエルの解放者としてエルサレムで玉座に着くことを期待していたからです。群衆はイエスが十字架に向かっていることなど、全く気づいていなかったのでした。ただイエスだけが自分が十字架への道を歩み始めていることを深く自覚しておられました。群衆たちはイエスの厳しい言葉に面食らったに違いありませんが、主は弟子であることの覚悟をここで群衆に告げておられるのです。

 26節:もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」。「憎む」という表現は、セム語的な表現として用いられており、「憎む」という意味よりも、むしろ「より少なく愛する」とか「引き離す」という意味です。モーセの十戒に「父母を敬え」とあるように、両親や家族に対する愛と尊敬、自分自身を大切にすることは当時でも自明の前提でした。しかし弟子たる者は、家族や自分よりも深くまずイエスを愛することが求められています。このことの意味は後で考えてみたいと思います。

 そして主はこう続けられます。「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない27節)。ここで「十字架」という語が出ました。「十字架」とは「極刑の死」を意味しますから、自分のいのちをイエスのために犠牲にするという覚悟がここでは問われていることになります。実際に復活の主と出会った弟子たちは、迫害の中にあっても殉教の死を恐れずに、見えない復活の主のご臨在を身近に生き生きと感じながら、主のみあとに従いつつ、主の福音を高らかに宣教していったのでした。その基調音は死を超えた深い復活の喜びにありました。喜びが彼らを突き動かしたのです。

 

現代社会の持つ特徴:①コンビニ時代、②多チャンネル時代、③インターネット時代

 では、私たちにとって「自分の十字架を担う」ということはどのようなことを意味しているのでしょうか。しばらく思い巡らしてみたいと思います。もう17-8年ほど前でしょうか、私はカトリックの中央協議会(東京の潮見)で開かれた「インターネットと教会」という主題の講演会に伺ったことがありました。ちょうど教会でホームページを設置した直後であったと思います。発題者はカトリック新聞の松隈康史という名前の新聞記者でした。大変に興味深い内容で、今でもその講演を鮮やかに覚えています。

 松隈さんはこのように語られました。「現代社会には三つの際立った特徴があります。それはすべて、どこまでも自我の欲求・欲望を満足させるような方向に発展してきた社会で、現代人の自我の肥大化を促進させてきました。それは、①コンビニ時代、②多チャンネル時代、③インターネット時代、の三つに特徴的に現れています。最初の「コンビニ時代」というのは、以前には商店は夕方5時とか7時には閉まってしまい必要なものがあっても翌日の開店時間まで待たなければなりませんでしたが、今は24時間コンビニが空いていますので欲しいもの・必要なものはすぐに手に入ります。我慢しなくてよくなったのです。第二は「(テレビの)多チャンネル時代」。以前は、特にナイター中継などは、夜の9時24分頃になると、どんなにそれがよい場面であってもテレビ放映は終了してしまいました。慌ててラジオのナイター中継に切り替えたりしたものですが、今は衛星放送(BS)だけでなく通信衛星放送(CS)もあって、契約さえすればいつでも多くのチャンネルを見ることができますし、自動的に録画しておけば時間を問わずいつでも好きなときに見ることができます。我慢する必要はほとんどなくなったのです。そして第三は「インターネット時代」。これもネットサーフィンなど、自分の望むままにいくらでも情報を収集することができます。コンビニ時代、多チャンネル時代、インターネット時代。この三つは、現代人が忍耐することなしに自分の欲望・欲求の赴くままにそれを満たしてゆくことができる社会の到来を意味しています。現代社会は限りなく自我が肥大化する方向に進んできました。しかし私たち人間の本当の幸福はそのような「自我の肥大化」という一線上にあるのでしょうか。限りないもの、それは人間の欲望です。教会がホームページを設置したとしてもそこには自ずから限界があります。なぜなら、教会は人と人との出会いとつながりを通して、最終的には復活の主との出会いを通して、私たちが自身の罪や死や破れ、有限性といったもの、あるいは、生きることの意味や罪や死の問題と格闘するように招かれる場所であり、自分の自己中心性という限界と向きあうところだからです。主は言われました。『自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない』と。そこにおいては、肥大化した私たち人間の自我が打ち砕かれることが求められているのです。インターネットは教会に入るための入口にはなるとしても、それだけですべてが満たされるわけではありません。どこまでも自分中心的な自分の欲求が満たされようとする生き方の延長線上には、救いの喜びはないのです。キリストによって集められた信仰共同体での真実の出会いとつながりを通して自我が打ち砕かれ、『もはや生きるのは我にあらず、キリストがわがうちにありて生くるなり』(ガラテヤ2:20)というキリスト中心の次元が出来事になる必要があるのです」。

 この松隈さんの論点はとても明快で

正鵠

(

せいこく

)

を射ていると思いました。私にはその言葉がストンと腑に落ちたのです。今でもその通りだと思っています。自分の欲望を満足させるという生き方の延長線上にはキリストと出会う救いの喜びや平安はないのです。自分の十字架を担うこと、つまり罪と死との格闘抜きには救いに至ることはできません。群衆たちに向かって厳しい言葉を投げかけた主イエスは、そのことによって、そのような自己中心的な生き方ではなく、神中心、キリスト中心の生き方を求めていたのでした。

 

柳田邦男『犠牲(サクリファイス)』(1995)『悲しみは真の人生の始まり、内面の成長こそ』(2014)

 柳田邦男というノンフィクション作家・評論家がいます(80歳)。最初はNHKの記者でしたが、その後独立し、航空機事故や医療事故、災害や戦争などのドキュメンタリー作品を多数出版して世に問うてきました。『マッハの恐怖』(1971)、『ガン回廊の朝』(1979)、『がん50人の勇気』(1980)、『零戦燃ゆ』(1984)、『「死の医学」への序章』(1986)、『「想定外」の罠〜大震災と原発』(2011)、最近では絵本について、多くを出版されているドキュメンタリー作家です。

 彼は1993年、長く精神を病んでいた次男・洋二郎を25歳で亡くします。自死でした。そのことの経緯を克明に記した『犠牲(サクリファイス)〜わが息子・脳死の11日間』(1995。文春文庫、1999)という書物があり、その帯にはこう書かれています。「冷たい夏の日の夕方、25歳の青年が自死を図った。意識が戻らないまま彼は脳死状態に。生前、心を病みながらも自己犠牲に思いを馳せていた彼のため、父親は悩んだ末に臓器提供を決意する。医療や脳死問題にも造詣の深い著者が最愛の息子を喪って動揺し、苦しみ、生と死について考え抜いた11日間の感動の手記」。最近私は次のような柳田邦男氏の文章と出会いました。「癒やしとは、胸をかきむしらんばかりの苦しみ、悲しみを抱え、そこから逃げずに必死に生きようとするその人生そのもののこと。それが、癒やしの本質です」(『悲しみは真の人生の始まり、内面の成長こそ』)。「洋二郎の死によって変わったことは、世の中で起きている公害や事件、戦争などを、対象としてではなく、自分もその中の一員として考えるようになったことです」。最近柳田邦男氏は、こどもたちのネットやゲーム、携帯文化を批判しつつ、絵本などを通して、人と人とのつながりとやりとり(対話)を回復することの大切さを繰り返し主張しています。二年前に上智大学で開かれた日本スピリチュアルケア学会でも柳田氏は主題講演をし、「死後生」というものに触れながら人のいのちは死をもっても終わらないという印象深い講演をされました。自我の肥大化の延長線上には人間としての真の幸福はないのです。自己の欲望を満足させることではなく、苦しみや悲しみこそが私たちの内面を成長させてくれるからです。「自分の十字架を負ってわたしに従いなさい」と告げられた主の言葉を心に響かせながら、主に従って新しい一週間を踏み出してゆきたいと思います。お一人おひとりの上に主の祝福を祈ります。

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