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2016年12月 5日 (月)

2016年9月25日(日) 聖霊降臨後第19主日礼拝説教「深き淵の底から」

2016925日(日) 聖霊降臨後第19主日礼拝説教「深き淵の底から」      大柴譲治

ルカによる福音書16:19-31

しかし、アブラハムは言った。「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。」(25)

 

ラザロ〜神に愛され、祝福された人

 本日の福音書の日課には極めて印象的なたとえが語られています。そこには金持ちと貧しいラザロについての彼岸と此岸での対照的な姿が描かれています。このエピソードは、「よきサマリア人」や「放蕩息子」などと同様、ルカ福音書にしか出てこないたとえです。ルカは医者でしたから医者として現実をキチンと見る目と温かく優しい心とを持っていました。病気や障がいで苦しみ悲しむ者、虐げられた者、貧しい者、女性、老人、子供など、社会的に弱い立場におかれた者に対して温かいまなざしを注いでいます。

 ルカ16章では「不正な管理人のたとえ」に続き、引き続き信仰と富の問題が扱われています。不正な管理人のたとえの中でのイエスの言葉、「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」という言葉を聞いて、「金に執着するファリサイ派の人々が、この一部始終を聞いて、イエスをあざ笑った」と14節にはあります。「金に執着するファリサイ派の人々」とは字義通りは「銀貨を愛するファリサイ人」です。主は神と富に兼ね仕えることはできないと言いましたが、ファリサイ派の人々の信仰/神学によれば、富やこの世の豊かさというものは神からの祝福であって、相反するものではなかったのです。逆に貧しさは神からの罰であり、懲らしめでした。神を信じる者は栄え、信じない者は滅びるのです。このような「正統主義的な信仰」は、例えば詩編1編などに明らかです。そのような正統主義的なファリサイ派から見ると、富は神を信じる者に対する神からの祝福であり、神と富とを相反するものとして説くイエスの教えは全くナンセンスなもの、笑止千万なものに見えたのです。だから彼らはイエスをあざ笑っているのです。

 そのようなこの世的なものに「安住」するファリサイ派に対して主イエスは、「あなたたちは神と富に兼ね仕えようとしている。富を神とし、真の神に仕えることを止めてしまった」と厳しい批判の言葉を向けています。本日の「金持ちとラザロのたとえ」も同じようにファリサイ派の人々に向けて語られました。それは旧約聖書の日課アモス6:1-6の驕れる人々への神の審判の言葉と重なります。真の信仰においては、神と富に兼ね仕えることはできません。そこで「富(マンモン)」に仕えることは「わたし以外の何ものをも神としてはならない」と命じる十戒の第一戒に違反することになる。本日の第二日課(1テモテ6章)にもそれは警告されていました。

 

金持ちとラザロ

 このたとえはなぜこれほど印象的なのか。ラザロの現世の悲惨さに私たちが心を痛めるからです。たとえの中に「ラザロ」(通常のユダヤ人の「エレアザル・神が助けたもう」という名を短縮したギリシャ語形)という名前が出てくるというのは大変珍しく、通常はありません。おそらくこれは当時実際に似たような事件があって人々の記憶に残っていたのでありましょう。ここでの「金持ち」は「銀貨を愛するファリサイ人」でもあり、祭司や貴族階級が多かったユダヤ教の「サドカイ派」に属する人物であったと思われます。サドカイ派は、ファリサイ派とは異なり、天使や来世、復活といったものについては信じず、ひたすら現世の生活を重視したグループでした。その意味でサドカイ派は、死後の世界のことも大切に考えて律法を厳格に守ろうとしたファリサイ派とは違う立場にありました。

 金持ちとラザロの姿は、なぜこの世にはこれほど差があるのかというくらい不公平であり対照的です。彼らはこの地上では全く無関係で、関わりはありませんでした。二人に平等なのは、ただ両者共に「死が臨む」という点だけです。ユダヤ人たちはその貧しさと困窮とを「ラザロは自らの罪のゆえに神から罰を受けていた」というように考えていたと思われます。

 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた」(19-21節)。ユダヤ人にとってここで犬は「汚れた動物」(恐らく死んだ動物の肉を食らう存在)です。誰にも相手にされないラザロの悲惨さ、犬を追い払ってくれる者が誰もいない孤独が強調されています。放蕩息子は飢饉の中でハッと我に返って帰るべき父親のことを思い起こしましたが、ラザロには帰るべきところはなかった。この世では誰も彼を迎え入れてくれなかった。「咳をしても一人」(尾崎放哉)。悲惨の極みです。このたとえでは、現世では救いなく貧しい者として死んだ「声無きラザロ」の復権が試みられています。神はすべて見ておられるのです。

 

アブラハムのふところ=義人の安息の場

 マザーテレサは言いました。「愛の反対は憎しみではない。無関心である」と。人々はラザロの姿に全く無関心です。彼は誰にも知られずにひっそりと死んでいったことでしょう。そのような誰にも関係を持たれることのない一人の小さき者に、主イエスのまなざしは温かく注がれています。そのことをルカは記録しているのです。ラザロの姿に主は、自らの未来の姿(十字架)を重ね合わせながら、心痛めつつこのたとえを語られたように思えてなりません。しかし、主は言われるのです。神はその「ラザロ」という名前の通り、豊かな憐れみをもってラザロを助けたまうのだと。

 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた」(22節)。「すぐそば」とは「ふところ」という語で、それは食卓を共にする様子を表しています。また「アブラハムのふところ」は彼が自分の子らに愛と保護を与える義人の安息所でもあります。そこでは貧しい乞食であったラザロが神への信仰のゆえに義人であったことが宣言されています。義人ラザロはそこで初めて永遠の安息の場を得たのです。彼は、義人であったがゆえに、神のみに希望を置いていたのでした。

 問題は金持ちの方でした。彼は「正統主義」的な信仰に安住して満ち足りていた。しかし死んだ後には立場が逆転します(23-26節)。当時、陰府の国では悪人の場所には炎があり、義人の場所には泉があると考えられていました。前述のようにこの世の富や地位を神からの祝福として捉えていたユダヤ人にとって腹に据えかねるような描写だったことでしょう。しかしイエスの言うように、人は神と富に兼ね仕えることはできません。あれかこれか、二つに一つです。富においてもただ神のみを神としなければならない。神によって託された富は自分のためではなく神と隣人を愛するために用いてゆかなければならない。金持ちは「銀貨」ではなく「貧しい者たちを愛する」べきでした。

 貧しかったラザロは、金持ちとは対照的に、その貧しさのゆえにいつも神に祈り、全財産のレプタ二つを捧げたあのやもめのように、自分が持っていたわずかなものをもすべて神と隣人のために分かち合い捧げ尽くしたのでしょう。ラザロは「神が助けたもう」という名の通り、神に祝福された人でした。そしてこのラザロの姿の中に、人々に見捨てられても死に至るまで神のみ心に従順であった主イエスの十字架の歩みが重なって見えてきます。私たちのため死に至るまで、それも十字架の死に至るまで徹底的に神の御旨に従順に従われた主イエス・キリストの姿が。このお方が人間の力では越えることのできない深き淵の底に降り立ち、それを深い愛で乗り越えてくださいました。アブラハムのふところに休らうラザロ。主はこのたとえを通して声無きラザロの復権をしてくださいました。ラザロのような小さき者たちを義人としてご自身のふところに迎え入れるため、神はその独り子をこの世という「深き淵の底」に派遣してくださったのです。この主イエスの温かなまなざしを覚えつつこの新しい一週間を共に歩んでまいりたいと思います。お一人おひとりに豊かな祝福がありますように。アーメン。

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