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2016年12月 5日 (月)

2016年9月11日(日) 聖霊降臨後第17主日礼拝説教「1匹と99匹」

2016911日(日) 聖霊降臨後第17主日礼拝 説教「1匹と99匹」       大柴 譲治

テモテへの手紙 一 1:12-17

『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。 」(15節)

 

ルカによる福音書15:1-10

あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」(4節)

 

「罪人のかしら」としてのパウロ〜キリストによる価値の転換 >

 本日の使徒書の日課である1テモテ1:15でパウロは次のように語っています。「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」。このわたしは、その罪人の中で最たる者です」という表現は口語訳聖書では「罪人のかしら」となっていました。パウロは自分が罪人たちの中でも最も罪深い者であり、その親分格だというのです。彼が持っている罪の自覚の深さは際立っています。パウロは最初キリスト教の迫害者でした。彼はダマスコ途上で復活のキリストと出会うことで劇的な回心を遂げるのです。13節はそのような背景から理解できる言葉です。「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました。

 聖書が言う「罪」とは神との関係を表す関係概念であり、何か悪いこと、罪深いこと、律法違反を積み重ねてきたという意味ではありません。それは神との関係が破れていることを意味しています。パウロはキリストと出会うまでは、若い頃からエリート教育を受けた熱心で完璧なファリサイ派の律法学者でした。フィリピ書3章には次のようにあります。「自分も肉に関しては誇れないことはない」と言ってパウロはこう語るのです。「わたしは生まれて八日目に割礼を受け、イスラエルの民に属し、ベニヤミン族の出身で、ヘブライ人の中のヘブライ人です。律法に関してはファリサイ派の一員、熱心さの点では教会の迫害者、律法の義については非のうちどころのない者でした」(5-6節)。パウロのかつての誇り高い生き方が直接伝わってくるような文章です。パウロは自分のことを「律法の義については非のうちどころのない者である」とまで言っています。つまり自分は「律法に関しては、一点の曇りもなく、それを完璧に守り抜いた」と言っているのです。何とすごい言葉かと思います。私たちはなかなかここまでは言えないように思います。どこか自分が中途半端で、不徹底であるがゆえの後ろめたさの自覚があるからでしょう。キリストと出会う以前のパウロがいかに誇り高く、完璧主義者であったかがよく分かります。私などはこのような自信過剰な人には近寄りがたいと思ったりします。まぶしすぎるのです。しかしパウロは復活のキリストと出会うことでそれまでの生き方を180度変えられてゆきます。もはや完全に別人です。フィリピ書の3章で彼はこう続けます。「しかし、わたしにとって有利であったこれらのことを、キリストのゆえに損失と見なすようになったのです。そればかりか、わたしの主キリスト・イエスを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたと見なしていま」と(7-8節)。ここで「塵あくた」と訳されている言葉は、口語訳では「糞土のように思っている」と訳されていました。キリストと出会ったあまりのすばらしさ、そのあまりにも大きな喜びに、それまでの一切が色あせてしまい、一切を損失・無意味と見る者に自分は変えられたというのです。パウロのそれまでの価値観は打ち砕かれ、キリストによってすべてが全く新しくされているのです。それほど復活の主と出会うことはパウロにとって、そしてまた私たちにとっても、インパクトのあることであり、決定的なことだったのです。それは、キリスト教の迫害者からキリスト教の伝道者への転換をもたらしました。生き方の方向転換だけでなく、主体の転換でもありました。

 だからこそパウロはここで「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です」と語っているのです。コインに両面があるように、罪の自覚と共に「キリストは罪人であるこの『私』を救うためにこの地上に来てくださった」という救いの自覚がないと、その受肉も十字架も復活もどこか人ごとになってしまいます。

 

羊飼いイエス

 福音書の日課では「ファリサイ派の人々と律法学者たち」が登場しています。パウロもそうでしたが、ファリサイ派というのは律法を厳格に守り抜くユダヤ教の一派で、もともと「分離する」という意味を持つ熱心なグループでした。浄くないもの、汚れたものから自らを分離させ、引き離すことによって自らの浄さを保とうとするような律法主義的なグループです。ファリサイ派の対極に位置するのがイエスでした。イエスはどんなところにでも入っていって、人々を決して分け隔てせずに接してゆきました。だからその周りには「徴税人や罪人が皆、話を聞こうとしてイエスに近寄って来た」(ルカ15:1)のです。それゆえファリサイ派から「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」という批判の声があがりました(2節)。それに対して失われた者が見出された時には天では大きな喜びがあるということで三つの譬えが語られます。「見失った羊の譬え」「無くした銀貨の譬え」、そして「放蕩息子の譬え」です。本日はその最初の譬えに焦点を当てたいと思います。

 そこには百匹の羊のうち一匹が迷い出したら、その一匹を見つけ出すまで徹底的に探し歩く羊飼いの姿が記されています。この羊飼いこそ、私たちの主イエス・キリストその方です。主はともすれば迷いがちな私たちの魂を守り、支え、正しい道に導いてくださるお方なのです。

 私がこの3月まで牧師として働いていた東京のむさしの教会には礼拝堂の正面に羊飼いのステンドグラスがありました。大阪教会にもステンドグラスがありますが、ステンドグラスというものは、もともと「目で見る説教」として造られています。詩編23編に「主はわたしの牧者であって、わたしには乏しいことがない。主はわたしを緑の牧場に伏させ、いこいのみぎわに伴われる。主はわたしの魂を生きかえらせ、皆のためにわたしを正しい道に導かれる。」と歌われている通り、そこには右と左に羊が従っており、その胸には小羊が抱かれていました。教会に来られる多くの方々は、この迷子の羊を自分自身と重ねて見ていたのではないかと思います。自分の弱さや破れ、行き詰まりや限界等に苦しめばこそ、「罪人のかしら」として罪と恥に苦しむからこそ、私たちはこの教会に足を運んでいるのです。主はそのことをよくご存知です。

 

1匹と99

 私はこの1匹と99匹の羊の譬えを読むたびに少し複雑な思いに捉われます。迷子になった羊の立場に立てばこのような羊飼いはとても頼りになる有り難い存在でしょうが、99匹の立場に立てば一匹を依怙贔屓して自分たちをほったらかす不公平な羊飼いということになるように思います。彼らには次は自分が迷子になるかもしれないという自覚がないからです。あるいは自分がかつて迷子であったことを忘れてしまっています。羊飼いはどの一匹が迷子になっても同様に見つけるまで探し歩くことでしょう。羊飼いは一匹一匹の羊に名前を付けてそれに親しく呼びかけながら、緑の牧場、憩いの水際に羊を伴うのです。

 ちなみに、牧師は羊飼いのような式服をまとっていますが、真の羊飼いはお一人しかおられません。私たちのためにあの十字架にかかってくださった主イエス・キリストお一人です。では牧師は何かというと、私の恩師の賀来周一先生がうまいこと言われました。「牧師は羊の群れから迷子がでないように、羊飼いを手伝って群れの周りを走り回っている牧羊犬に過ぎません」と。言い得て妙ですね。主は私たち一人ひとりの神の前に失われた魂を見出し、神との正しい関係へと連れ戻して下さる真の羊飼いです。

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