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2016年12月 5日 (月)

2016年8月21日(日) 聖霊降臨後第14主日礼拝説教「腰痛からの解放」

2016821日(日) 聖霊降臨後第14主日礼拝説教「腰痛からの解放」    大柴 譲治

ルカによる福音書13:10-17

安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。10-13節)

 

「健康は人を外に向かわせ、病いは人を内に向かわせる。」

 「健康は人を外に向かわせ、病いは人を内に向かわせる。」 いつの頃でしょうか、私はこの言葉を知りました。その通りであると思います。健康は私たちを外の世界に向かわせますが、病気は私たちを内面の世界に深く沈潜させる、そのような力を与えてくれます。見聞を拡げることも、内面を豊かにすることも、人間として成長してゆくためには、その両方が私たちには必要なことであるのでしょう。

 しかし同時に、「身体の痛み」だけは、人を変えてしまう側面があります。「健康は人を外に向かわせ、病いは人を内に向かわせる」などと悠長なことを言っていられない。「痛み」は私たちから思考力ばかりか人間性をも奪ってしまう。緩和ケア病棟などでも、疼痛(ペイン)コントロールの果たす役割は大きく、104歳の現役医師である聖路加記念病院の日野原重明先生も、自分はガンになっても痛みだけはコントロールしてもらいたいと語っておられたことを思い起こします。痛みは人から人間性を奪ってしまう。

 

腰痛からの解放

 本日の福音書の日課には、労働をしてはならないと定められていた安息日(それは土曜日のことです)に主イエスが18年間も腰が曲がって、病気に苦しめられていた一人の女性を癒されたことが記録されています。この出来事はルカ福音書にしか記録されていないエピソードです。これは、病気の人や弱い立場にある人たちに温かい眼差しを注ぐ医者であったルカならではの、貴重な記録であったと思います。(私は牧師になって30年経ちますが、改定聖書日課をこの4月から使い始めていますので、初めてこの箇所で説教をいたします。これまで使っていたペリコーペにはこの箇所は選ばれておりませんでした。)「安息日を覚え、これを聖なるものとせよ」というのがモーセの十戒の中にも出てきます。私たちにはなかなか理解できにくいことですが、これはユダヤ人にとってはとても重要な、神の定めた掟だったのです。

 

10 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。 11 そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。 12 イエスはその女を見て呼び寄せ、「婦人よ、病気は治った」と言って、 13 その上に手を置かれた。女は、たちどころに腰がまっすぐになり、神を賛美した。

 

 皆さんの中でも腰痛に苦しんでこられた方が何人もおられると拝察いたします。「腰」は、その漢字が如実に示しているように、人間の身体の中で「要」の部分でもあります。腰の痛みを抱えてなかなか生活が不自由であることは、この18年間も腰が曲がったままで、その病気に痛め苦しめられてきたこの女性にとっても同様だったことでしょう。ルカはこの女性が「病の霊にとりつかれていた」と記しています。主もそれを「サタンの縛り」と呼んでいます。主イエスは彼女に「病気は治った」と宣言して、その腰に手を置くことで、彼女をその病の霊(サタンの縛り)から解放してゆくのです。彼女はたちどころに腰がまっすぐになると共に、神の救いのみ業を讃美し始めます。病によって曇っていた彼女の心が、主の癒やしの宣言によって、神に向かって開かれ、その道筋がまっすぐにされたのでありましょう。詩編102:19 には次のような言葉がありますが、その通りです。「後の世代のために、このことは書き記されねばならない。『主を賛美するために民は創造された』」。私たちのいのち、私たちの人生は、神さまを讃美するために創造されたと聖書は語っています。

私にとっての「荒野の40日」〜脊椎分離症の夏

 少し個人的なことをお話しすることをお許しください。私は中学高校時代、身体を動かすのが大変好きで、あまり上手くはなかったのですが、バスケットボールやサッカーなどのスポーツを好んでやっていました。しかし高校一年生の終わり頃から腰痛がひどくなって病院を受診したところ、「脊椎分離症」という診断を受けました。成長の途上で何らかの原因で脊椎が分離し、激しい運動をすることによって、その脊椎の中を通っている神経を刺激して激痛が走るということでした。腰が痛いと何もできないですね。お医者さんが言うには二つのチョイスがありました。一つは一生、薬で痛みを散らしてゆくという方法です。もう一つは、リスクはあるけれども、手術を受けて腰の骨を削り、分離した脊椎の隙間を埋めてゆく方法でした。失敗すると下半身不随にもなりうるということでした。私は迷うことなく即座に手術を決断して親に伝えました。結局16歳の時、高校二年生の夏、2ヶ月ほど静岡市の整形外科の病院に入院して手術と治療とリハビリを受けることになりました。結果として手術も術後もうまくいったので感謝していますが、今から振り返ってもなかなか得難い体験をしたと思っています。手術後40日間は石膏で作ったギブスの中に入ってベッドで上を向いたまま微動だにできずにいました。今でも私は寝相がいいのは、その時の体験が生きているのでしょう。寝たきりですからトイレにも行けず、母が付きっきりで看護してくれました。家族にも申し訳ないことをしたと思っています。暑い夏でした。冷房は骨によくないからということで、病室にはそのような設備はありませんでした。汗をかいて背中がかゆくなってもかくことができず、一週間に一度、予備の石膏ギブスと交換する時に、背中にはカビが生えていたそうです。それは、気が遠くなるほど時間がゆっくりと流れた、私にとっての「荒野の40日」でした。しかし、それを耐えることができたのも、多くの人たちの祈りによって支えられたことと、「必ず神さまはその御業を表してくださる」と私自身が信じることができたからであったと思います。「健康は人を外に向かわせ、病いは人を内に向かわせる」。他にすることがないものですから、片っ端から本を読んだことを覚えています(私が本好きになった原体験です)。また、不思議な(想像)体験もいたしました。イザヤ書40:31には次のようにあります。「主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。そのみ言葉を自ら味わったように思っています。確かに身体は身動きができないのですが、自分の魂(想像力)が突然自分の身体から抜け出して、ちょうど鷲が翼を張って空高く飛翔してゆくような、そして飛びながら空から地上をつぶさに見てゆくような(メタ認知的な)想像体験を何度も持ったのでした。私たちの魂だけは常に束縛から自由であり、いつでもどこにでもダイナミックに飛翔することができるのだということを実感しました。長い目で見ると、人生、何がプラスになるかわかりませんね。この病気を通して私自身は、私の中に忍耐力と想像力、そして感受性とが養われた時であったと思っています。もう二度とあの頃には戻りたくないしんどい体験ではありましたが、そのような私自身の「荒野の40日」体験を通して、多少なりとも、良く言うと「忍耐強い性格」が、悪く言うと「しぶとく、しつこく、諦めない性格」が、私の中に形成されていったと思っています。同じように、皆さんの中にも病気を通してキリスト信仰に導かれた方も少なくないのではないかと思っています。

 本日の18年間も腰の病いに苦しみ続けた一人の女性も、主イエスと出会うことを通して、病気が癒され、痛みから解放され、神との正しい関係にもう一度招き入れられることができたのでした。この出来事は安息日に起こりましたが、その意味で「安息日」に真にふさわしい、一人の女性の人間解放の出来事であり、彼女が神との関係を回復し、神への讃美を取り戻すことができた出来事であったのです。

 

聖餐への招き

 本日も私たちは聖餐式に招かれています。「これはあなたのために与えるわたしの身体。これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」。主が十字架と復活を通して私たちの心を神さまに向かって開いてくださったことを覚え、神の「安らかな息」(聖霊)に満たされて新しい一週間を踏み出してまいりたいと思います。お一人おひとりの上に主の豊かな祝福がありますように祈ります。アーメン。

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