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2016年12月 5日 (月)

2016年8月14日(日) 聖霊降臨後第13主日礼拝説教「地上に投ぜられた火」

2016814日(日) 聖霊降臨後第13主日礼拝 説教「地上に投ぜられた火」  大柴 譲治

ルカによる福音書12:49-56

「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」(49)

 

「一生燃焼、一生感動、一生

不悟

(

ふご

)

」(相田みつお)

 「一生燃焼、一生感動、一生不悟」。これは最近出会った印象的な言葉で、相田みつおさんという方の言葉です。たとえ生涯悟ることはできないとしても、一生涯燃焼することを、感動することを求めたいという意味なのでしょう。「一生不悟」とは「分かった顏をせず、徹底的に考え抜く」という決意を込めた言葉と受け止める人もいました。「一生燃焼、一生感動、一生不悟」。なかなかよい言葉ですね。現在リオデジャネイロでオリンピックが開催されていて様々なドラマに感動させられますし、甲子園での高校野球も進行中です。スポーツでも芸術でも、仕事でも趣味でもボランティアでも、あるいは子育てでも、自分の命を託すことができるもの、燃焼させることができるものを持っている人は幸いでありましょう。「感動」とは、ゲーテのファウスト博士が「時よ、止まれ。お前はそのままで美しい」と言えるような至福の瞬間を生涯追い求め続けたように、心が深く動かされ続けることでもあります。「人間は感情から老化する」とも言われますので、「感動する心」を大切にすることは若さを保つことでもありましょう。

 

主によって地上に投ぜられた火

 本日の福音書では主イエスが自分は地上に火を投ずるために来たと告げています(49a)。主がその言葉を発したときにはまだ「火」は燃えていなかった。だから主はこう言われます。「その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか」(49b)。「火」とはユダヤ教では終わりの日の神の審判を意味することが少なくないのですが、この場合の「火」は、主イエスの十字架の苦しみという「洗礼」を通してこの地上に投ぜられてゆく、人を新たに創造する「聖霊の炎」であり「浄化の炎」でありましょう。主は言われます、「しかし、わたしには受けねばならない洗礼がある。それが終わるまで、わたしはどんなに苦しむことだろう」(50節)。主の十字架の苦しみと死を通して私たち人間の新生が、罪の赦しと浄化が行われてゆく。49-50節はルカ福音書だけが記録している主の言葉ですが、三度の受難予告をした後、具体的に十字架への歩みを踏みだし始めた主イエスの、人間としての内的な苦悶の声がここに表出されているようにも思われます。それは私たちのための「苦しみの洗礼(バプテスマの動詞形バプティゾーは「浸す」という意味)」でした。

 その火が投ぜられたら何が起こるのか。衝撃的な言葉が続きます。「あなたがたは、わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」(51節。マタイ福音書10:34では「剣」となっていました)。そしてこのキリストによって投ぜられた火は、「平和」ではなく、家族や人間関係の中にシビアな「分裂」をもたらすというのです。「今から後、一つの家に五人いるならば、三人は二人と、二人は三人と対立して分かれるからである。父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」(52-53節)。火が投じられる前には見えなかった大切なものがそこには見えてくるということなのでしょう。それは何か。神の真実であり、真理です。実際に初代教会ではキリスト者に対する迫害が起こりましたので、イエスのこの預言の言葉が現実として受け止められていたことでしょう。神との関係の前で家族や隣人との関係がもう一度根底から問われ直してゆくのです。鉄が火によって精錬されてゆくように、私たちの人間関係は主が投じられた火によって精錬されてゆくのかもしれません。神の前で真実の人間関係が再び打ち立てられてゆくということです。

 愛の宗教として知られているキリスト教にこのような激しい言葉があることに私たちは驚かされます。キリストへの服従が第一のものとして求められていることを私たちは心に刻みたいと思います。私たちは「地縁」でも「血縁」でもない、「聖霊縁」「キリスト縁」というもので集められて結び合わされている「神の家族」です。先日この教会では結婚式と婚約式がありましたが、「人が独りでいるのはよくない。ふさわしい助け手を与えよう」(創世記2:18)という神の決意が先にあって、その神の決意のもとでアダムとエヴァが出会ってゆくのです。人間の出会いの背後には神が働いておられる。私たちは神が与え給うたこの「絆」を、この「ご縁」を大切にするのです。「平和ではなく分裂」という主イエスの言葉の真意は、人の出会いと関係とを超えて、その直中に働く神を共に見上げてゆくことが私たちに求められています。

 主は父なる神の御旨に死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順に歩まれました。主の受けられた「十字架の苦難と死という洗礼」によって私たちは永遠の命を得ることができたのです。ここに真実の愛があります。そこから私たちは、自分に与えられている家族や地域や職場などの人間関係を、神との関係の中に、主に服従することの中で、再度位置付け直すよう求められているのです。野の花、空の鳥に目を向けたいと思います。働きもしなければ紡ぎもしない。しかし天の父は彼らをも養っていてくださる。だからまず神の国と神の義を求めたいのです。その中で必要なものはすべて与えられてゆくからです。

 「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という言葉にあるように、私たちは自分を超えたもの(天/神)を意識するときに初めて自分自身をきちんと位置付けることができるのです。人間は「神のかたち(似姿)」に造られていると創世記1:27は告げていますが、それは私たち人間が最初から最後まで神との関係の中に置かれていることを宣言しています。私たちは神との関係の中で、神に向かって生きるのです。義人ヨブは全財産を突然不条理なかたちで失う中で次のように告白しました。「わたしは裸で母の胎を出た。裸でかしこに帰ろう。主が与え、主が奪う。主の御名はほめたたえられよ」(ヨブ記1:21)。それは、悲しまない、嘆かないという生き方ではありません。悲しみも嘆きも含めて、すべてを神から与えられるものとして、神の前に受け止めてゆく態度です。私たちはキリストを見上げ、キリストに服従することの中で、キリストからの真の愛の炎をいただいて浄化され精錬されることを通して、燃える柴の中から語りかけてくる神の声にモーセが耳を傾けたように、神の声を聴きながら、相田みつおが言うような「一生燃焼、一生感動、一生不悟」の生を真に生きることができるのではないかと思います。

 

聖餐への招き

 本日も私たちは聖餐式に招かれています。「これはあなたのために与えるわたしの身体。これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」。そう言って苦しみを受ける前日に弟子たちにパンとブドウ酒を分かたれた主イエス・キリスト。このキリストが地上に投じて下さった愛の火、聖霊の息吹をしっかりと受け止めて、ご一緒に新しい一週間を踏み出してまいりたいと思います。

 お一人おひとりの上に主の豊かな祝福がありますようにお祈りいたします。 アーメン。

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