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2016年12月 5日 (月)

2016年7月31日(日)聖霊降臨後第11主日礼拝説教 「神の前に豊かになるということ」

2016731日(日)聖霊降臨後第11主日聖餐礼拝説教 「神の前に豊かになるということ」 大柴 譲治

コヘレトの言葉 1:2, 12-14, 2:18-23  

ルカによる福音書 12:13-21

「しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」(ルカ12:20-21

 

「神の前にある」ということ

 本日の主題は「神の前に豊かになるということ」です。そのことが何を意味しているのかをみ言葉に聴いてまいりたいと思います。福音書の日課であるルカ12:13-15は次のように遺産問題についての言葉から始まっています。群衆の一人が言った。「先生、わたしにも遺産を分けてくれるように兄弟に言ってください。」イエスはその人に言われた。「だれがわたしを、あなたがたの裁判官や調停人に任命したのか。」そして、一同に言われた。「どんな貪欲にも注意を払い、用心しなさい。有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである。」

 「貪欲」「むさぼり」、これが諸悪の根源です。「限りないもの、それは欲望」と歌った歌手もいます。「欲望」には確かに終りがないように見える。しかし同時にそれが「生きる力」や「希望の源」、「向上心」というところに結びつくとすれば、「欲望」は必ずしも悪い側面ばかりを持つのではないということになります。

 「有り余るほど物を持っていても、人の命は財産によってどうすることもできないからである」という主の言葉は、まことにその通りです。全てを失う悲しみの中でヨブが「裸で母の胎を出た。裸でかしこに帰ろう」と告白したように、いくら多くのモノを持っていても、死ぬ時に私たちはそれらを何一つ持ってゆくことはできず、すべてを後に残してゆかなければならないからです。

 しかし同時に私は思います。本当にその通りなのでしょうか。もし私たちが有り余るほどモノやお金を持っていれば、様々なところに旅行したり、美味しいものを食べたり、おしゃれをしたり、趣味や勉強やボランティアに精を出したり、QOLQuality of Life生活の質)の高い日々を送る事が出来るのではないでしょうか。高額医療も受けられるという面もあります。また、未来のために賢く備えるということは大切なことなのかもしれません。しかしさらに大切なことがあると本日の福音書や旧約聖書の日課は私たちに告げているのです。それは何か。「神の前に豊かになる」ということです。「貪欲」や「むさぼり」がなぜ主によって警告されているのかというと、それらによって私たちが簡単に「神の前に豊かになる」ということを忘れてしまうからだと思います。視野が狭くなり、自分しか見えなくなる。モノローグになってしまいがちということです。大切なことは「神の前に」というところです。信仰とは神との対話(ダイアローグ)だからです。宗教改革者のマルティン・ルターがあの激動の時代の中で「われここに立つ。神よ、助けたまえ」と告白したように、私たちは「自分が神の前に立たされている」という次元(事実)を忘れてはならないのです。それをいつも思っていなければならないとは思いません。それは難しい。そうではなくて、毎日の生活の中の、要所要所で思い起こす必要があるのです。

 たとえば、「一日五回祈る」ということを習慣化することが大切であると思われます。朝起きたときと三度の食事の前、そして夜寝るときの五回、私たちは神の前に自分が置かれていること、神との関係の中で自分は生かされているということを覚え、神に感謝をもって祈ることのの中で確認してゆくことが大切でありましょう。

 

「今、ここで、共に」、神の前に生きる

 もう一度福音書の日課に戻りましょう(ルカ12:16-21)。主は続けてたとえを語られます。このたとえはルカ福音書にしか出てこないたとえです。

 それから、イエスはたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、『どうしよう。作物をしまっておく場所がない』と思い巡らしたが、やがて言った。『こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。「さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」と。』しかし神は、『愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか』と言われた。自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

 なかなかドキッとするたとえです。自分の命が今夜限りのものであるとすれば、私たちはどのように神の前に今を生きればよいのか改めて問われてゆくと思います。人間は死への存在であると言った人たちがいますが、普段私たちはそのようなことを忘れて生きています。いや、忘れないと生きてゆけないと思っているのかもしれません。死を忘れるために何か気晴らしが必要であり、生きるための意味や生を支える希望が必要なのだと思います。本日の第一日課のコヘレトの言葉が「空の空、空の空、いっさいは空である」(口語訳聖書の伝道の書)と正しく看破した通り、私たちのこの命は有限であり、はかないものなのです。

 本日の福音書には新共同訳聖書で「愚かな金持ちのたとえ」という小見出しが付いています。しかし何が愚かなのでしょうか。彼は彼なりに頑張って仕事をして、将来のために手堅く蓄えたのです。私たちも同じです。ただ彼が一つ忘れていたことは、今ここで自分が神の前に生かされているということを忘れていたということでありましょう。今夜限りの命であったとしても、私たちは今ここで神とつながって生きる、そのような生き方をすることができるとすれば、「主はわたしの羊飼い、わたしには乏しいことがない」と詩編23編が歌うように、たとえ死の陰の谷をゆくときも災いを恐れずにすむのです。なぜ恐れる必要がないのか。それは主が、今ここで、私たちと共におられるからです。

 

神の前に「豊かになる」ということ

 さらに言えば、何が本当の豊かさであるかという問題が残っています。神の前に豊かになるということと物資的に豊かになるということは全く違う次元の事柄だということは分かりました。「だれも二人の主人に兼ね仕えることはできない」という主の言葉の通り、私たちは神と富とに兼ね仕えることはできないのです。であるとすれば、神の前に豊かになるということは、物質的に言えば、貧しくなるということでもありましょう。

 大谷美和子という方の書かれた『生きる〜元ハンセン病者谷川秋夫の77年』(フォレストブックス、2001)という本があります。谷川秋夫という岡山の長島愛生園という元ハンセン病の療養所に住む一人の元ハンセン病患者であった歌人の生涯を記した書物です。先日JELCの西地域教師会の退修会が岡山・虫明で開かれ、私たちは長島愛生園を訪問しました。私はかつて福山教会の牧師だった時に一度、「人間回復の橋」と呼ばれた邑久長島大橋が開通(198858日)した直後、福山教会員たちと共に訪ねたことがありました。その本の中に佐藤正一という一人の韓国人の元ハンセン病患者が出て来ます(p149-151)。佐藤さんはとても質素な生活を一生貫いて、自分に与えられたものをすべて他者のために献げ尽くすという生涯を全うされた方でした。神の前に豊かになるということで私の心に深く刻まれたエピソードでした。

 すべてを神と隣人のために献げ尽くすという生き方が神の前に豊かになるということでしたら、それを最後まで貫かれたのがイエス・キリストでした。私たちは今日も聖餐式に与りますが、主はパンとブドウ酒をご自身の身体と血として私たちに差し出して下さいました。人の前では最も貧しく無力で惨めな生き方をされた方でしたが、神の前では最も豊かで祝福された生き方をされた方でした。このお方のご生涯を覚えつつ、ご一緒に聖餐式に与りたいと思います。お一人おひとりの上に主の祝福が豊かにありますように。

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