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2016年12月 5日 (月)

2016年7月24日 聖霊降臨後第10主日礼拝説教 「求めて与えられるもの」

2016724日 聖霊降臨後第10主日礼拝説教「求めて与えられるもの」

大柴 譲治

創世記 18:20-32

ルカによる福音書 11:1-13

そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。(9-10節)

 

「求めよ、さらば与えられん。」

 私の父(大柴俊和)は関西学院大学で学んでいた時代(20歳)に日本基督教団大阪城北教会で受洗し、後にルーテル教会の牧師となりました。その父が口癖のように言っていた言葉が「求めよ、さらば与えられん。探せ、さらば見出さん。叩け、さらば開かれん」という本日の日課のみ言葉でした。時に応じて親が子どもに口伝えでみ言葉を伝えてゆくことは大切です。私自身も気がつくといつの間にか繰り返しこのみ言葉を自分に言い聞かせ、これを「呪文」のように唱えているではありませんか。「求めよ、さらば与えられん」と。今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい」(申命記6:6-7)。

 本日の日課にある「主の祈り」も、主がお教え下さっただけあって不思議な力に満ちており、お守りのように私たち(世界)を包み守ってくれている祈り(ヘルムート・ティーリケ)です。私は小教理問答などで「これだけはどうか暗唱していただき、繰り返し声に出して唱えていただきたい」とお勧めしてきました。声には不思議な力があるからです。日本語には「

言霊

(

ことだま

)

」という語がありますが、それは「

(

ことば

)

の力」というよりもむしろ「

(

こえ

)

の力」を表していると思われます。言葉は声として伝達されるからです。

 「三つ児の魂百まで」と言われるように、父の口癖は三人の子どもたちに受け継がれたように思います。反復暗示効果と言いましょうか、サブリミナル効果と言いましょうか、親は従来そのように家庭で子どもたちを教育していたのだろうと思います。皆さんもおそらく両親の口癖を、その言い方の癖までを含めて、覚えておられるのではないでしょうか。口伝伝承ということの大切さを覚えます。聖書も最初は口伝えでの口頭伝承でした。例えばイエスさまの言葉やご生涯も、直接それを見聞きしていた12使徒が存在していた段階では口伝えで伝えられていました。それが迫害での殉教や離散、高齢化などで直接の弟子たちがいなくなってゆく中、言葉として記される必要が生じて福音書としてまとめられていったのです。ペトロの通訳者だったマルコが最初に福音書を書いたとされています。最初は心に刻まれた「声」から始まっていたのです。

 

求めて与えられるもの

 本日の箇所では「祈ることを教えてください」と願い出た弟子たちに「主の祈り」が教えられました。彼らの願いは聞き入れられた。求めて与えられたのです。また、急遽必要となったパンを執拗に求め続けて与えられた者の譬えも語られています。親は子供に必ず良いものを与えようとするからです。あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう5-8節)。これだけを読むと、私たちは自分が必要とするものを諦めずに求め続ける時、それは必ず与えられると読むこともできるかも知れません。ヘブライ書の11:1を想起する方もおられましょう。「信仰とは望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することである。昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」。そう語りながら、アベルやエノク、ノアやアブラハムなどが例としてあげられてゆくのです(そしてイサク、ヤコブ、ヨセフと続きます)。実はこの「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認する」というのは、私たちが望むことではなく、神が望んでいる事柄が必ず実現すると確信し、神の見えない恵みの事実を確認するという意味であると私自身は思っています。主イエスが十字架に架かられる前にゲッセマネの園で血のように汗を流されながら祈られた祈りをも想起します。主は祈られました。アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように(マルコ14:36)。

 

アブラハムのソドムのための執り成しの祈り

 本日の旧約聖書の日課ではアブラハムがソドムのために神に必死になって執り成しを願い出る場面が記されています。それは「求めよ、さらば与えられん」の一つの実例とも言えましょう。それは神と対決して行こうとする凄まじいまでのアブラハムの覚悟した姿を示しています。ソドムにはアブラハムの甥のロトとその家族が住んでいるのですから、アブラハムも決して人ごとではありません。「ソドムに50人の正しい者がいたら、あなたは彼らをソドムと一緒に亡ぼされるのですか」とアブラハムは神に問うのです。そして神は50人の正しい者がいたら、ソドムを亡ぼさない」と約束されるのです。45人、40人、30人、20人、10人とアブラハムは諦めずに、息を飮むような緊張感の中で、神とのやり取りを執拗に続けます。そして彼は最後に10人の正しい者がいれば、ソドムを亡ぼさない」というところまで神の約束を取り付けるのですが、結局ソドムには10人の正しい者がいなかったということになるのでしょう、亡ぼされてしまいます。しかしこのやり取りから私たちが示されることは、最後まで私たちには神との格闘が許されているということでしょう。祈りとは神との格闘であると申し上げることもできましょう。

 創世記の32章には、ヤボクの渡しの場面で何者かがヤコブと朝まで格闘したことが記されています。そこでヤコブは腿のつがいを外されるという大きな犠牲を払いますが(つまりそれ以降は足を引きずるようになったということです)、格闘に負けることなく、遂に相手から新しい「イスラエル」という名前と祝福とを獲得します。 もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」(創世記32:27-29

 実はその「何者か」は、神からの使いであり、神ご自身であったということが分かります。そこではイスラエルという新しい名の意味は「神と人々(複数形)と闘って勝つ」という意味であると開示されています。ヤコブはそこでわたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所を「ペヌエル(神の顔)」命名してゆくのです(創世記32:31)。母の胎内で既に双子の兄弟エサウと格闘を始めていたヤコブの生涯を見てゆくと、格闘の人生と言ってよいのかもしれません。その意味で私たちの人生もまた格闘でもあります。私自身が願うものと神が私に与えようとされるものとの間での格闘です。どこに御心があるか私たちに分からないことも少なくない。どうして神は沈黙しておられるのか、神は一体どこにいるのかと苛立ち、自分は神に見捨てられたのではないかと感じることもありましょう。主ご自身も「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!(わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか!)」と十字架の上で叫ばれたくらいです。しかしこの格闘の生涯を通して、ヤコブが神の祝福を得て「新しい名(存在)」を与えられていったように、私たちもまた新たな祝福の人生を与えられてゆくと聖書は示しています。求めて与えられるもの、それはその独り子を賜るほどにこの世を愛された神の愛の祝福であると信じます。

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