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2016年12月 5日 (月)

2016年7月10日(日) 聖霊降臨後第8主日礼拝説教「『よきサマリア人』とは?」

2016710日(日) 聖霊降臨後第8主日礼拝説教「『よきサマリア人』とは?」  大柴 譲治

ルカによる福音書 10:25-37

「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」

 

根源的な問い〜「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」

 一人の「律法の専門家」が登場します。イエスの実力を試そうとして彼は論争をしかけてくる。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。「先生」と敬語で呼びかけていますが心からそう思っているわけではありません。しかし彼はとてもよい質問を出しました。どうすれば永遠の命を得られるかという問いは、私たちにとってとても根源的で重要な質問だからです。

 「永遠の命」とは「死によっても揺らぐことのない本当の命」であり、永遠なる神だけが与えて下さる命のことを意味します。「有限な命」に対する「無限に続く命」ということとは異なっています。「永遠に続いて終りが来ない」ことは恐ろしい事でもありましょう。私自身は「永遠の命」を、完全なかたちでは未来に与えられる「命」であると思いますが、同時に「今この瞬間に、ここで」私たちに与えられている命でもあると捉えています。先日聖研でフィリピ書3章を学びました。そこに「わたしたちの本国は天にある」というパウロの言葉が出て来ました(20節)。口語訳では「国籍は天にあり」と訳されてきた言葉です。パウロによれば私たちは、この地上の国籍を持ちつつ同時に天国籍も持っている「天国人」であり「二重国籍者」なのです。確かに時間と空間という枠組みの中に私たちの命は置かれていながら、時間と空間を超えたお方(=神)を信じ、そのお方とつながることを通して、私たちは時空を超える命の次元にも生かされている。永遠の命を持つお方(永遠なる神)とつながって生きる時、今ここで、私たちは「永遠につながる今」=「永遠の今」を生きているのだと思います。そしてそのことはこの世の悲しみや嘆きや死によっても決して揺らぐことのない「神のみ言の上に立っている命」です。どのようにすれば永遠の命を得ることができるか。その律法学者は、彼のイエスを試みようという思いを遙かに越えて、正しい問いを、正しい人に向かって問うているのです。神の独り子だけがこの問いに答えることができるのですから。

 

「それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

 別の箇所で主イエスは兄弟ラザロを亡くして嘆き悲しむマルタに向かって次のように告げていました。「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、死ぬことはない。(あなたは)このことを信じるか」(ヨハネ11:25-26)。主はこの律法学者に対してもこのようにも答えることができたことでしょう。しかしここでの答えは全く違っています。イエスは彼の思いを知りつつ逆に彼に問いかけるのです。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。律法学者は我が意を得たりというタイミングで正しく答えます。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」と(27節)。イエスは言われました。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」28節)。律法の求める「愛」を行う(生きる)ことで永遠の命を得ることができると主イエスは宣言しておられるのです。

 当時は律法全体をまとめるとこの二つの戒めになると考えられていました。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」「隣人を自分のように愛しなさい」という二つです。それはモーセの十戒が二つの石の板に刻まれていたことにも対応しています。そこには三つの方向に向かう愛、三方向のベクトルを持つ愛が語られています。即ち、「神を愛すること」と「自分を愛すること」、そして「隣人を愛すること」の三つです。「愛する」を「大切にする」と言い換えることもできましょう。それらの三つの方向を持つ愛は、根元で一つに結びあわされていて、どの一つを否定してもあとの二つが成り立たないような、三位一体の関係にあると思われます。神を大切にし、自分を大切にし、隣人を大切にする。これらの愛を実行すれば永遠の命が得られるという主の答えはとても明晰判明です。しかしそこには大きな問題があります。その問題とは、第一の戒めと第二の戒めの関係であり、神を愛するということと隣人を愛するということの関係なのです。

よいサマリア人のたとえ〜「神への愛」と「隣人愛」のクロスするところ

 このよいサマリア人の譬えはルカ福音書だけに記録されていて、他の福音書には出て来ません。私はルカ福音書が、この「サマリア人のたとえ」(10章)と「放蕩息子のたとえ」(15章)、そして(マグニフィカートやヌンクディミティスを含む)クリスマスの出来事(1-2章)、取税人ザアカイ(19章)、自分を十字架に架けた人々のために祈られたイエスの十字架上の執り成しの祈り「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているか知らないのです」(ルカ23:34)を記しているということだけでも十分に不滅の価値があると感じています。特にルカは医者でしたから優しい心をもって、病気や障がいに苦しむ人、社会的に弱い立場に置かれて虐げられている者、老人や子供や女性や異邦人に対して温かい眼差しを持ちつつ福音書を書いています。

 ここでは、よいサマリア人のたとえの最初に登場する三人の人物、追いはぎに襲われて半殺しの目にあって倒れているユダヤ人のところをたまたま通り架かった三人に焦点を当ててみたいと思います。エルサレムからエリコに下る道というのはくねくねとした曲がりの多い山道で、見通しの悪さからもしばしば追いはぎが出没していたようです。エリコは「祭司の町」と呼ばれていましたから、祭司とレビ人の二人はエルサレム神殿での宗教的祭儀を終えてエリコの家に帰ろうとしていたのでしょう。彼らも倒れている同胞のユダヤ人を見て恐らく可哀想に思ったに違いありません。しかし律法には「汚れたものに近づいたり触れたりしてはならない」という戒めがあって、血を流しているものや死んだものに触れると一定の清めの期間を経なければ宗教的な祭儀に関わることはできないという規定があったため、それに近づくことを避けようとしたと考えられます。だから「道の向こう側(=一番遠い反対側)」を通っていったのです。彼ら二人のした行為は律法を守ろうとした行為であり、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、主なる神を愛そう」とした行為であったと言えましょう。彼らは神を愛することをどこまでも優先し、隣人を愛することをそこから分離して捉えたのです。

 しかしサマリア人は違いました。ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』」33-35節)。そのサマリア人は自分のなすべき用事を行いながら、自分にできる範囲内で、傷ついた人に心をこめて関わっていると言えましょう。この「憐れに思う」という言葉は、ギリシャ語では「スプラングニゾマイ」と言って「内蔵」という意味の語に由来します。日本語に「断腸の思い」という表現がありますが、「同情」や「憐憫」をもってということではなく、はらわたのよじれるような痛みをもってサマリア人は傷ついた旅人の痛みを自分の身体の中心で受け止めたということです。すべてはこの「深い憐れみ」から始まっています。サマリア人はもともとユダヤ人と同族でしたが、当時はユダヤ人と犬猿の仲でした。ですから律法学者も「その人を助けた人です」と言って「サマリア人」という語を使わなかったくらいです。当時これに似た出来事が実際にあって大きなニュースになっていたとも考えられます。もしそうであるならば、その出来事を取り上げてイエスはここでこの譬えを語っていることになります。

 先ほど触れたように、祭司とレビ人は第一の戒めを第二の戒めから分離させていました。神を愛するという垂直方向の愛を隣人を愛するという水平方向の愛から分離させているのです。それに対してサマリア人は、その人を見て深く憐れみ、近寄って助け起こして傷に油とブドウ酒を注いで包帯を巻いて介抱して行きます。この辺りの描写は医者であったルカの面目躍如でありましょう。サマリア人は第二の戒めが求めている隣人を愛するという水平方向の愛の中に、神を愛するという垂直方向の愛をクロスさせ、それを最後まで貫いていったのです。

 深い憐れみのゆえに、飼う者のいない羊のような私たちを憐れみ、私たちの羊飼いになってくださったお方がいます。それは、私たちの罪を贖い、迷子になっていた私たちを深く憐れみ、私たちをもう一度神さまの元に取り戻すためにあの十字架に架かってくださった主イエス・キリストです。その意味では「よいサマリア人」は主イエス・キリストご自身を指しています。このお方は私たちを「隣人」として愛することの中に、神への愛をクロスさせ貫かれたのです。そこにあの十字架のクロスが立っています。このお方にすべてを委ねて新しい一週間を踏み出して行きたいと思います。 お一人おひとりの上に豊かな祝福がありますようお祈りいたします。 アーメン。

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