« 2016年5月22日(日)三位一体主日礼拝説教「三位一体の神? 神!」 | トップページ | 2016年6月12日(日)聖霊降臨後第4主日礼拝説教「あなたの信仰があなたを救った。」 »

2016年12月 5日 (月)

2016年6月5日(日)聖霊降臨後第3主日礼拝説教「もう泣かなくともよい。」

201665日(日)主日礼拝説教「もう泣かなくともよい。」 大柴譲治

ルカによる福音書 7:11-17

イエスが町の門に近づかれると、ちょうど、ある母親の一人息子が死んで、棺が担ぎ出されるところだった。その母親はやもめであって、町の人が大勢そばに付き添っていた。主はこの母親を見て、憐れに思い、「もう泣かなくともよい」と言われた。12-13節)

 

愛する者を失うグリーフ(悲嘆)

 本日の福音書には、夫に先立たれ、今また一人息子を亡くすという悲しみの中にいる一人の女性が登場します。彼女は葬送の途上にありました。ナインという町の門から外に出て行くところでイエスと出会った。彼女を慰めるために人々が大勢付き添っていました。しかしその涙は涸れることはありませんでした。

 私たちは愛する者を失う悲しみがどれほど深いかを体験的に知っています。それは自分自身の一部を奪われるような、生木を引き裂かれるような痛みを伴うのです。あるユダヤ教のラビの言葉です。「私たちが親を亡くすということは私たちの過去を失うということであり、配偶者を亡くすということは私たちの現在を失うということであり、子供を亡くすということは私たちの未来を失うということなのだ」と(アール・グロルマン)。その意味でこの女性は、恐らく「過去」も、「現在」も「未来」も失ってしまったのです。彼女は生きる支えをどこにも見出すことができなくなってしまった。現実を受容することができない中、彼女は必死にそれを受け止めようとしていた。茫然自失する中で涙を禁じ得なかったに違いありません。

 私たちもまた同じように涙の谷をくぐり抜けなければならない人生の時があります。避けて通ることのできない「戦争」のような時代状況もあるでしょう。親や配偶者を見送る時、子供を失う時など、特に「さよなら」を言えないかたちで突然愛する者を失う時に、私たちの心には癒しがたい深い悔いが残ります。覆水盆に返らず。「あの時こうすればよかった、ああしなければよかった」。思いはそこをぐるぐると巡ります。しかしもう時は戻りません。そのように考えてきますと、今私たちに与えられているものは決して「当たり前ではない」ということが分かります。私たちは「今ここ」の一瞬一瞬を「かけがえのないもの」としなければならないのです。

 

「最後だとわかっていたなら」

 2001911日に起こった米国の航空機による同時多発テロの後にインターネットを通して広まった「もし最後だと分かっていたなら」という詩があります。訳者によるとノーマ・コーネート・マレックという女性が、1989年に自分の長男を10歳で亡くされた際に作った詩です。息子さんは溺れた子供を助けようとして自らも溺れてしまったのでした。9.11のテロの後に深い共感を呼んで、日本語にも訳されました(佐川睦訳『最後だとわかっていたなら』サンクチュアリ出版、2007)。心に響く内容です。

 私はこれまで牧師として様々なグリーフ(悲嘆)の現実に関わらせていただいてきましたが、その中で次第に気づかされてきたことがあります。グリーフは、それをまるでなかったことのようにすることもできませんし、忘れようとしても忘れることはできないのです。むしろ悲しみを深めてゆく方向で、泣いて泣いて泣いて、思いっきり泣いて、涙を流し切るような方向で、悲しみの底つき体験をする時、それを担ってゆく不思議な力が与えられてゆくように思わされてきたのです。

 その際に私たちには、傍に誰か、自分の気持ちをそのまま受け止めてくれる人が必要です。黙って涙を流しながら聴いてくれる誰かが必要なのです。一人息子を亡くして葬送の中に置かれている一人のやもめの周りに大勢の人がいたというのは、親族でしょうか、隣人でしょうか、まさにそのように悲しみを分かち合ってくれる親しい者たちがいたということでしょう。彼女は涙を禁じることはできませんでした。

深い憐れみを伴う主の声〜「もう泣かなくともよい。」

 そのような葬送の行進の中で、彼女は主イエスと町の出口で出会います。通常墓は町の門の外にあったからです。彼女は一人息子の棺を墓に収めるための最後のプロセスの中にありました。彼女たち一行は町の外に向かって出て行こうとしていたところに、主イエスが弟子たちと共に町の門から中に入ってきて、二つのグループは期せずしてクロスしたのです。人生において通りがかった主イエスと出会うということほど決定的なことはありません。母親は主イエスによって涙の中から救い出されてゆきます。

 「主はこの母親を見て、憐れに思い、『もう泣かなくともよい』と言われた」(13節)。ここで「憐れに思う」(ギリシャ語で「スプラングニゾマイ」)というのは、日本語の「同情」や「憐憫」という語よりももっと強い動きのある言葉で、「内蔵」(英語ではSpleen「脾臓」)という語に由来します。日本語の「腸がよじれる思い」「断腸の思い」という表現に近い。私が神学生の時に東京の築地にある聖路加国際病院で臨床牧会訓練を受けた時、スーパーヴァイザーであった聖公会の井原泰男司祭はこう言われました。「僕はね、患者さんと話をしていても大切なところにくると胃がビクビク動くんだよね」。この言葉は私にとっては衝撃的な体験でした。胃がビクビク動く!? 本当か? そのような聴き方が人にできるのかということに目が開かれた瞬間でした。

 旧約聖書で「憐れみ」(「ラハミーム」)という語はさらに具体的です。それは「子宮」を表す「ラヘム」という語から来ています。「産みの苦しみ」ということでしょう。いずれにせよ、自分の身体の中心でその人の嘆き悲しみを受け止めるということです。あるカトリック神父はこう訳しています。「主はその母親を見てはらわたをつき動かされ、『泣かなくともよい』と声をかけた」(本田哲郎)。この母親の深い嘆きを主はご自身のはらわたで受け止められた。そのことが彼女の中に何かを起こします。彼女は主イエスと出会うことで息子を取り戻しただけではない。主イエスの深い憐れみと出会うことで、救い主を信じる者へと変えられてゆく。

 その悲しみの深みで主は彼女に告げます。「もう泣かなくともよい」と。「あなたはもう十分涙を流したことを私は知っている。あなたはその涙を通して、涙の谷の一番奥底で、神の救いの御業を見るのだ」と主は告げておられるようです。神はわれらと共にいます。「もう泣かなくともよい。わたしがあなたの涙を拭う」と主は告げて、その一人息子を生命に呼び戻されるのです。「そして、近づいて棺に手を触れられると、担いでいる人たちは立ち止まった。イエスは、『若者よ、あなたに言う。起きなさい』と言われた。すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった」(14-15節)。主は、死をも超えて命を再創造する力を父から与えられています。死んだ者に直接語りかけて、「起きなさい」と命じる権威を持っておられる。土の塵に過ぎない私たちに命の息を吹き込んで下さる。主はその一人息子を起き上がらせることを通して、あの旧約時代の「大預言者」エリヤと同様に(列王紀上17章)、涙を流すことしかできなかった母親に再び「未来」を、「生きる希望」を取り戻させるのです。主の深い憐れみのなせる業です。

 そしてこの出来事は、死を超えた次元、「復活の命」という次元があるということを示しています。福音書にはここ以外に、あと二つ、主が死人を甦らせたことが記録されています。本日の出来事はルカ福音書にだけ記録されている出来事ですが、マルコ福音書5章には、「タリタ、クム」とアラム語で言って会堂長ヤイロの12歳の娘を甦らせた主イエスの姿が記録されています(マタイ9章、ルカ8章に並行箇所あり)。そしてヨハネ11章には、「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない」(11:25-26)という有名な言葉と共に、主がマルタとマリアの兄弟ラザロを甦らせたことが記されています。

 彼らはしかしやがてもう一度死を迎えて行きます。その意味では彼らの復活は、主の復活とは異なった次元に位置付けられていると申し上げることができましょう。私たちはどのような時にも深い憐れみをもって私たちの嘆きを受け入れ、私たちの悲しみの淵に降り立って「もう泣かなくともよい」と言ってくださる主を信じるよう招かれています。この主のみ声を心に刻みながら新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

« 2016年5月22日(日)三位一体主日礼拝説教「三位一体の神? 神!」 | トップページ | 2016年6月12日(日)聖霊降臨後第4主日礼拝説教「あなたの信仰があなたを救った。」 »

心と体」カテゴリの記事