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2016年12月 5日 (月)

2016年6月26日(日)聖霊降臨後第6主日礼拝説教「主の枕するところ」

2016626日(日)聖霊降臨後第6主日礼拝説教「主の枕するところ」       大柴譲治

ルカによる福音書 9:51-62

イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」(58)

 

服従の覚悟

 本日の福音書の主題は「キリストに従う」というところにあります。新共同訳聖書になって小見出しとその下に並行箇所が記されるようになったことは、私たちの理解を助けるのに益となりましょう。本日の箇所(ルカ9:51-62)には二つの小見出しがついています。「サマリア人から歓迎されない」と「弟子の覚悟」です。先週も悪霊どもに取り憑かれたゲラサの男が登場していましたが、悪霊たちが男からブタに移って崖から湖に落ちて溺れ死んだという出来事に恐れをなしたゲラサ地方の人々も主イエスを歓迎しなかったと記されていました(8:26-39)。墓場を住まいとしていた彼を、主は「自分の家に帰りなさい。神があなたになさったことをことごとく話して聞かせなさい」(8:39)と言って彼の「家」に戻されたのです。

 本日の日課には、主イエスの「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」という言葉があります。「人の子」とは主イエスがご自分を語る時の常套句。主イエスは「枕するところ」「安らいで眠るべきご自身の家」を持たなかったということです。私たちのために天から派遣されてこの地上を旅された主イエスは、この世の旅人、寄留者、「難民」として、枕するところ、帰るべきところを持たない者として、この地上の生涯を歩まれました。それは私たちが最終的に「帰るべきところ」がどこであるかを示すためであった。それは「天」であり「神の御国」です。私たちもまたキリストに倣う者として天を見上げて生きてゆきたいと思います。

 

天を見上げて生きる〜「ターゲットは天国」

 ルカ9:51はこう告げます。「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」。「決意を固める」と訳されている言葉は「顏を向ける」という意味の言葉です。「天に上げられる」とは、「昇天」のことですが、「エルサレムに向かう決意を固められた」とあるように、具体的にはエルサレムでの苦難と十字架の死、そして復活と昇天の出来事を指しています。主はその道を歩む覚悟を決めてまっすぐにエルサレムに顏を向けて歩んでゆかれます。このことは私たちにも大切なことを教えています。私たちは天上のみ国を見上げて、そこを私たちに与えられた約束の地として地上の旅を進めてゆくのです。最近は「ターミナルケア」とか「終活」とか「エンディングノート」ということがよく言われます。「ターミナル」には「終点・終着駅」という意味もありますが同時に「分岐点・乗換点」という意味があります。終りに向かって備えるのではなく、そこから始まる新しいいのちに乗り換えて行くための準備が信仰者にとっての「ターミナルケア」なのです。私たちに永遠のいのちを与えるために主イエスは、神の都エルサレムで十字架の玉座に着き、茨の冠を頭にかぶられたのです。

 フィンランドから来た宣教師のパ−ヴォ・ヘイッキネン牧師が、総会説教の中で次のように語られたことがありました。「ターゲットは天国です。私たちは天国に向かって旅を続けてゆくのです」と。この声が私の中で深く響き続けています。主イエスが天を見上げながら、自分を捨て、自分の十字架を負って、父なる神の御心に忠実に歩まれたように、私たちもまた、以前に「上を向いて歩こう」という坂本九の曲がありましたが、天を見上げながら、天の祖国を目指しながら、キリストに従って、この地上の旅を続けてゆくのです。

 

復讐を戒める主

 一行がエルサレムへの途上でサマリア人の村に立ち寄った時のことです。イエスがエルサレムに向かって進んでいることを知って、サマリア人たちは歓迎しませんでした。それを見て「雷の子ら」と呼ばれるほど気性が激しかったヨハネとヤコブが、「主よ、お望みならば、天から火を降らせて、彼らを焼き尽くしましょうか」と復讐を口にします。これは列王紀下1:10-12によれば、実際に預言者エリヤの時に起こった出来事でした。アハズヤ王からエリヤのところに派遣された五十人隊長と五十人の兵卒たちが、二度(百人)も天からの火に打たれて焼かれて死んだのです。しかし、イエスは「振り向いて」彼らを戒められます。まっすぐ彼らに顏を向け直すのです。「間違ってはならない。わたしは『力』をもって人を滅ぼすためにではなく『愛』をもって人を生かすために、エルサレムに顏を向けて歩みを進めているのだ」と言われたのでしょう。私たち人間の中で「復讐」は簡単にエスカレートしてゆきます。怒りはチェーンリアクションのように燃え上がってゆくのです。この地上での怒りと憎しみの連鎖に終止符を打つために、主イエスはこの地上にメシア(救い主)として降り立ち、十字架へと歩まれたのです。

 主は言われました。「あなたがたは敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(ルカ6:27)と。これは先週、女性会の聖研の箇所として与えられた聖句でした。「しかし、わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(同6:28)。主ご自身も十字架上でこう祈られました。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。最初の殉教者であったステファノも同じように祈っています。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒言行録7:60)。使徒言行録は医者であったルカによって福音書の続編として書かれています。ルカは自分を殺そうとする者たちのための執り成しの祈りを二度も記録していることになります。怒りや憎しみの連鎖ではなく、それを超えた赦しと愛の次元で生きるように私たちは招かれています。

 

枕するところを持たない主

 主の言葉に戻りましょう。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。これは十字架への歩みを決意した主イエスに私たちが服従してゆくことの困難さを告げる言葉です。続いて様々な理由を提示して、主から従うよう召し出された者たちがそのタイミングを失してゆくことが記されています。本日の旧約の日課では、エリヤに従うよう促されたエリシャがまず家族にいとまごいをすることをエリヤに願い出て許されていました。しかし、エリヤの時よりもさらに「時」は迫っているのでしょう、イエスはそれらを許しません。即座に従うことを命じておられます。主の弟子として歩むことの厳しさを思います。神の思いとタイミングは、私たちの思いを越えているのです。「すべての業には時がある」「神のなされることは皆その時に適って美しい」と旧約聖書は告げていますが(コヘレトの言葉/伝道の書)、神からのコール call(召命/呼び出し)には、私たち人間の思いを越えたかたちで、神ご自身のタイミングがある。そのことは私たち自身がこれまで歩んできた道を振り返ることで明らかでありましょう。時がよくても悪くても、私たちはキリストに出会い、キリストから呼び出され、キリストに従う者とされてきたからです。ちょうどタイミングあえばよいですが、むしろタイミングが合わないようなかたちで、私たちは今までやっていることを中断して、突然神の召し出しを受けることが多かったように思います。モーセの十戒の最初の戒めは、「わたしはあなたをわたし以外の何ものをも神としてはならない」と命じていますが、神に従うことはすべてを捨てることを意味します。すべてを手放した時に、必要なものはすべて神から与えられ直してゆくのでありましょう。裸で母の胎を出た私たちは裸でそこに帰って行く。真の自由はそこにあります。パウロは本日の使徒書の日課で言っています。「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません」(ガラテヤ5:1)。主は私たち自身が信仰者として歩むことを喜んでくださいます。涙で主の足をぬらし、髪の毛で足を清められた一人の女性の信仰を喜ばれたように(ルカ7:38)。その場こそが「主の枕するところ」であると私は思うのです。私たちもまた私たちの信仰を通して、貧しい宿かもしれませんが、主ご自身に一夜の宿を提供できる者となれますように祈り求めてゆきたいと思います。それが私たちができる、主の愛に対する感謝の応答なのです。

 

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