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2016年12月 5日 (月)

2016年6月12日(日)聖霊降臨後第4主日礼拝説教「あなたの信仰があなたを救った。」

2016/6/12(日)聖霊降臨後第4主日礼拝説教「あなたの信仰があなたを救った。」 大柴 譲治

サムエル記下 11:26-12:10, 13-15

ルカによる福音書 7:36-8:3

「イエスは女に、『あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい』と言われた。」(7:50)

  

罪の自覚と悔い改め

 本日の礼拝の主題は「罪の自覚」と「罪の悔い改め」です。イスラエルの王ダビデは、自分の部下であったヘト人ウリヤの妻バト・シェバが沐浴をする美しい姿を見初め、自分のものとしてしまうという罪を犯します(サムエル下11章)。奸計を巡らせて、子を宿したバト・シェバのもとに部下ウリヤを戦いの最前線から呼び戻して一夜を共にさせようとするのですが、ウリヤは部下たちが戦っているのに自分だけが家に帰ることはできないと言って断固として家に帰らない。そこでダビデは、事もあろうにウリヤを激戦地の最前線に送り込み戦死させてしまうのです。何と無慈悲でおぞましい人間の性であるかと思います。自分が神であるかのように振る舞うダビデの姿に私たちは震撼とするのです。しかし問題は、ダビデがそのことの罪深さに気づかないでいることです。

 そこに預言者ナタンが登場します。神から派遣された預言者です。そしてダビデに一つのたとえ話をします。家族のように大切にしていた一匹の子羊を貧しい男から奪い取って自分の客に振る舞った金持ちの男についてナタンが語った時にも、ダビデはまだそれが自分のことであることに気づきません。ナタンの「その男はあなただ!」という言葉に初めてダビデはハッと我に返って、事柄の重大さに思いを致すのです。私たちもまたこのような「糾弾する声」を必要としているのでありましょう。その声によって覚醒させられたダビデは、初めて自分の罪に気付き、それを悔い改めてゆく者となりました。その時に歌った詩編が第51編の悔い改めの詩編です。神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています51:3-5。なお、私たちが毎週礼拝で歌う奉献唱もこの詩編51編から取られています)。主の憐れみにすがる以外には術がありません。

 

罪深い女性に対するイエスの温かいまなざし

 本日の福音書の日課であるルカ7章には「罪深い女を赦す」出来事が記されています。このエピソードはルカ福音書にだけ記されていて、とても印象的です。シモンというファリサイ派(律法を厳格に守ろうとするグループに所属)の家に食事に招かれた場面でのことです。食事の最中に一人の女性がやってきて後ろからイエスに近づき、自分の涙でその足をぬらし、自分の髪の毛でそれを拭い清め、接吻してやまないという行為に出たというのです。当時は身体を横たえて食事をしたようです。彼女は「罪深い女」としか言われていませんから、どのような罪を犯したかは分かりませんが、それが公になっていて皆に知られており、後ろ指を指されていたということが分かります。ファリサイ派のシモンは心の中でつぶやきます。「この人がもし預言者なら、自分に触れている女がだれで、どんな人か分かるはずだ。罪深い女なのに」と(39節)。イエスはシモンの名前を呼び、「シモン、あなたに言いたいことがある」と言って、ある金貸しの譬えを語ります。そして借金を帳消しにされた二人の男のうち、多く赦された男の方が少なく赦された男よりも金貸しを愛するとシモン自らの口で告白させてゆくのです。そしてイエスはこう続けます。「この人を見ないか。わたしがあなたの家に入ったとき、あなたは足を洗う水もくれなかったが、この人は涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれた。あなたはわたしに接吻の挨拶もしなかったが、この人はわたしが入って来てから、わたしの足に接吻してやまなかった。あなたは頭にオリーブ油を塗ってくれなかったが、この人は足に香油を塗ってくれた。だから、言っておく。この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない」44-47節)。ここで問題になっているのは、罪の大きさではなく、罪の自覚の深さでありましょう。罪の大きさは、借金の額とは違って、人と比較することはできません。むしろ、自分は赦されざる罪を犯したにもかかわらず神の圧倒的な深い憐れみによってその「罪(借金/負債)」を赦されていると自覚する者こそ、「多く赦されたために多く愛する者となる」のでしょう。自分は少ししか赦されていないとしか感じない者は、少ししか感謝しないし、少ししか恩義を感じない(愛さない)のです。自己の罪の自覚の深さと神の憐れみの深さに気づく事は表裏一体であり、正比例しているように思われます。

 

「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」

 涙でイエスの足をぬらし、髪の毛で拭い清め、イエスの足に接吻してやまずにそこに香油を塗るこの一人の女性の行為は、罪の赦しを求めた「ざんげの行為」であるのみではなく、むしろイエスはそれを、神の憐れみ深い赦しに対する「感謝の行為」として受け止めておられることを心に刻みたいと思います。もしかすると最初は彼女も、後ろからそっとイエスに近づいた時に拒絶されるかもしれないと思っていたかもしれません。しかしイエスは彼女のなすがままに身を委ねられました。彼女はその受容を通して、ありのままでイエスによって変えられていったのです。そこで彼女が流した涙は、ボロボロになった彼女のこれまでの人生を現す苦しみと悲しみの涙であると共に、否むしろ、それにもかかわらず自分がありのままで肯定され受容されたことに対する安堵と喜びの涙であったのではないか(教会讃美歌303!)。そのことは、イエスが最後に彼女に告げる言葉からも明からです。

そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。同席の人たちは、「罪まで赦すこの人は、いったい何者だろう」と考え始めた。イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」と言われた。(49-50節)

 聖書でいう「罪」とは神との関係を表す関係概念です。聖書は神との関係が破れていることを「罪」と呼び、神との正しい関係を「義」と呼びます。それゆえ「あなたの罪は赦された」という宣言は、「神は決してあなたを見捨てたりはしない。神は常にあなたと共におられる」という宣言でもあります。「信仰」は人間の業ではなく、私たちの中に働く神の御業ですから、「あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい」というのは、「あなたの中に神が働いておられる。だから、安心して行きなさい」という神の恵みの事実の告知であり、神からの祝福の言葉なのです。このイエスの確かな声は、その後の彼女の人生を支え続けたに違いありません。人生においてこのような赦しの言葉、主イエスの祝福の言葉と出会うことができる者は幸いであります。私たちもまた、この主の赦しの言葉を心に響かせながら、新しい一週間を共に踏み出してまいりましょう。

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