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2016年12月 5日 (月)

2016年5月8日(日)主の昇天主日礼拝説教「天からの祝福に生きる」

2016年5月8日(日) 主の昇天主日礼拝説教「天からの祝福に生きる」    大柴 譲治

ルカによる福音書 24:49-53

「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

 

主は天国で何をしておられるか? 〜 祝福

 本日は昇天主日。復活後40日に渡りご自身の姿を弟子たちに現された主イエスが、弟子たちの見ている前で天に上げられた出来事を記念する主日。その日から主の姿は弟子たちには見えなくなりました。10日経って弟子たちが一つのところに集まっていると聖霊降臨の出来事が起こります。復活日から数えるとちょうど50日のことで、来週が聖霊降臨日(ペンテコステ)で「教会の誕生日」となります。本日は、主の昇天の出来事が私たちにとってどのような意味を持っているか思い巡らしながら、聖書に耳を傾けてまいりたいと思います。

 最初に一つ質問です。ある時に主は「誰でも幼子のようにならなければ神の国に入ることはできない」(マタイ18:3)と語りましたが、幼子の心に戻り、教会学校の生徒になったようなつもりでお答えください。主は天国で何をしておられるのでしょうか。

 ヒントは本日の福音書の日課にあります。ルカ24:50-51には次のようにありました。

 

イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。

 

 そうです。主は天国でいつも両手を上げて私たちを祝福して下さっているのです。礼拝の最後には司式者による祝祷として「アロンの祝福」(民数記6:24-26)が告げられます。「主があなたを祝福し、あなたを守られます。主がみ顔をもってあなたを照らし、あなたを恵まれます。主がみ顔を貴方に向け、あなたに平安を賜ります」。私たちはこれをいただいて礼拝を終え、それぞれの生活の場に散らされ派遣されてゆくのです。このことは実は、復活の主が天において私たちを祝福して下さっているという神の恵みの事実に与ること、私たちがその主の天からの祝福に与るということを意味しています。牧師の声を通してキリストの声が神の祝福を宣言しています。

 しかし、主の祝福に与るということは、悲しまなくなることではありません。苦しまなくなることでもない。悲しみや苦しみは依然として私たちの現実の中で私たちを圧倒しています。4月14日、16日に熊本や阿蘇、大分で起こった同時多発的な地震が現在も続いています。被災された方々のことを覚える時に私たちは、1995年1月の阪神淡路大震災や2011年の東日本大震災などを思い起こし、胸がつぶれるような思いになります。共に祈りを合わせてまいりたいと思います。

 久留米教会のメンバーで、U牧師の義理の弟さんが16日の地震で亡くなられました。全国総会にU先生も顏を出されて、「つい一ヶ月前の3月27日(日)のイースターには三人のお孫さんたちの洗礼式を久留米教会で行ったばかりだったのに。どうしてこんなことが起こるのか・・・」と絶句しておられました。ご遺族の上に天来の慰めをお祈りしたいと思います。苦しみや悲しみはクリスチャンだけを過ぎ越してゆくわけではないのです。苦難は、ある意味では平等に、すべての人間を襲う。生老病死、老いることや病気や死は、私たちが生きてゆく上で避けることはできない事柄です。

 主イエスも十字架の上で、「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか)!」と悲痛な叫びを大声で叫ばれました(マルコ15:34)。苦難の中で神は沈黙しています。しかし、私は思います。神は苦しむ者、涙する者の側に立たれているのだと。神は、どのような時にも「インマヌエルの神」、即ち、「われらと共にいます神」だからです。私たちの神は、すべての嘆き悲しむ者たちの痛みをご自身の痛みとして引き受けて下さる神なのです。それがあの十字架の出来事でありました。

 

北海道開拓の村で 〜 主君との主従関係

 2008年の夏でしたが私は、札幌郊外にある「北海道開拓の村」を訪れたことがあります。ここは北海道開拓百年を記念して建てられました。明治村のように、明治から昭和初期までに、開拓団が入った頃の52の建物を一カ所に集めて、その開拓団の歴史と共に公開しているのです。極寒の地である北海道ですから、冬は飢えと寒さと病気で、それを乗り越えてゆくのは実に大変だったと思います。藁葺きの家など、外気温と同じような建物もありました。その中の一つに「旧浦河公会会堂」というクリスチャンを中心とした開拓団の建物もありました。

 その時のガイドのボランティアのおじさんの話がとても心に残りました。多くの開拓団が北海道に入ったけれども最後まで厳しい寒さに耐え抜いたのは二つのグループだったこと。その二つとは、仙台の伊達藩から入った開拓団とクリスチャンの開拓団で、そこには「主君に忠誠を誓う」という点では共通点があったと言うのです。伊達藩の開拓団は主君の伊達政宗に対する忠誠を支えにしていたし、クリスチャンたちは父なる神や主イエス・キリストに対する信仰を支えにしていた。自分の外に自分を支える主従関係を持つ者は逆境の中でも強い力を発揮することができるというエピソードは目からウロコで、私の心の目を開いたような思いがしたのでした。

 何もクリスチャンだけではないですが、自分の外に自分を支える主君(何かsomething greatと呼べるようなもの)を持つ者は幸いでありましょう。主の十字架での「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか!」という叫びも、父なる神に向かっての叫びでした。そこには、父なる神に対するイエスの信頼が揺らぐことなく存続しています。自分のありったけの思いをぶつけることができるものを持つ者は幸いです。父なる神との生き生きとした主従関係に生きればこそ、最後まで主はその苦しみの杯を飲み干すことができたのです。ウァルデマール・キッペス神父はこう言っておられます。先の「エロイ、エロイ・・・」という言葉を「わが神、わが神、なにゆえわたしをお見捨てになったのですか」ではなく、「何のためにわたしをお見捨てになったのですか」と訳すこともできると。何のために? ただこのことを通して「神のみ業が(この人に)現れるために」(ヨハネ9:3。生まれた時から目の見えない人についての主の言葉)。キリストの十字架の苦難と死を通して、神の義と救いとが成し遂げられてゆくのです。復活の主が勝利し、昇天の主の祝福が天から私たちに注がれている。そのことを覚えて私たちは新しい一週間を踏み出してまいりましょう。

 お一人おひとりの上に神さまの祝福が豊かにありますようお祈りいたします。 アーメン。

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