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2016年12月 5日 (月)

2016年5月22日(日)三位一体主日礼拝説教「三位一体の神? 神!」

三位一体主日聖餐礼拝説教 「三位一体の神? 神!」    大柴 譲治

ヨハネによる福音書16:12-15

13しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。

 

「教理」とは何か

 「父と子と聖霊の御名によって」という言葉で私たちの「礼拝」は始まり、「父と子と聖霊の御名によって」という言葉で私たちの「礼拝」は終わります。「三位一体の神」の、聖なる御名による「招き」で礼拝は始まり、その聖なる御名による祝福と派遣とで終わってゆくのです。すべてはこの「聖なる三位一体の神」の御名によって貫かれ、支えられ、守られ、導かれていると言うことができましょう。本日は三位一体主日。三位一体という教会が大切にしてきた教理について焦点を当てて学びます。

 先週私たちは聖霊降臨日、教会の誕生日を祝いました。本日は聖霊降臨日の次の主日ということで、毎年この日を三位一体主日として守っています。一年には52週ありますが、そのうち唯一回だけ、キリスト教の教理について学ぶ主日、それが本日の三位一体主日なのです。教会の暦では、三位一体主日よりも前の、前半の半年を「キリストご自身のご生涯」について学びます。アドヴェント(待降節)、クリスマス、顕現日、聖灰水曜日、レント(四旬節)、受難週、受苦日、復活日、昇天日、聖霊降臨日と移ります。キリストのご生涯に沿ってみ言葉に聴いてゆくのです。そして三位一体主日の次の週からの半年は、今度は「譬え」など「キリストの教え」について半年間学んでゆくことになるのです。

 本日は年間で唯一、キリスト教の「教理」について学ぶ礼拝です。ですから、「教理」について少しお話ししなければなりません。受洗したり、他教派からルーテル教会に転入する際にはルターの『小教理問答』を私たちは学びます。「小教理」とあるように、そこではキリスト教の「教理」について学ぶのです。ルターは小教理問答書の中で、十戒、使徒信条、主の祈り、洗礼と聖餐という五つの事柄について説明をしています。

 「教理(ドクトリン)」というのは、私たち教会が「このように信じます」と、教会が公会議で定めてきた「信仰告白」の中心にある「公理」であり、私たちのキリスト信仰の「土台」であり、「枠組み」のようなものです。特に教会は、最初の時代(初代教会)には、様々な異端的な教えが出てくる中で、正統的な信仰について「公会議」で決めてゆきました。教理が決められていった背後には血を流すほどの厳しい論争がありました。

 初代教会は、異端との闘いの中で、二つの中心的な教理を確立してゆきます。「父と子と聖霊の神を、三つを一つにおいて、一つを三つにおいて信じる」という「三位一体の教理」と「キリストには完全な神性と完全な人性の二つがある」という「キリスト両性論の教理」の二つです。すべてのキリスト教会は、この二つの信仰告白の上に、自らの教会を立てています。逆に言えば、この二つを否定すると、正統的なキリスト教から離れ、「別の宗教」(異端)になってゆくということです。教会はこの二つの教理の上に二千年に渡って信仰を告白してきたのです。そして私たちもまたこのような教理の中に招き入れられています。

 

「信仰」と「理性」の関係

 私たちは、YMCAYWCAの赤い三角形のロゴマークを思いおこしていただきたいのです。Body(身体), Mind(頭), Spirit(心/魂)という私たち人間が持つ三つの要素が赤い三角形で表されています。私たちはこの三つを、神さまに与えられたものとして、バランスよく、大切に調和させながら、生きてゆくのです。

 特に「信仰」と「理性」の関係について考えておくことは、疑いのトマスのケースのように、特に三位一体などの教理を扱う上では、私たちにとっては大切な事柄であると思います。

 日本語には「石橋を叩いて渡る」という表現があります。どんなに安全そうに見えても十分に確認してから行動せよという、慎重にも慎重を期しなさいという戒めとして理解されている言葉です。ヨハネ福音書の二〇章を見ますと、使徒トマスは、復活の主が弟子たちに現れたときに、その場にいませんでした。一週間彼は、復活の主と出会ったと喜んでいる使徒たちの直中にあって、「自分のこの指を主の十字架の釘跡に差し入れてみなければ、自分のこの腕を十字架の槍後に入れてみなければ決して信じない」と疑い続けたのです。一週間後復活の主は再度弟子たちにご自身の姿を示されました。トマスの疑いを拒絶するのではなく、トマスに釘跡と槍の跡を示し、「あなたの指をここに当ててわたしの手を見なさい。また、あなたの手を伸ばしてわたしのわき腹に入れてみなさい。信じない者ではなく信じるものになりなさい」(ヨハネ20:27)と告げて、疑いのトマスは「わが主、わが神」と告白し、新約聖書中最大の信仰告白をする者に変えられてゆくのです(28節)。理性の働きは「疑う」という働きです。それに対して信仰の働きは「信じる」という働きです。二つは異なる次元の働きですので、疑いをどれほど積み重ねても信仰に至ることはありません。それは向こう側から、復活の主がご自身を示してくださるというかたちでしか乗り越えてゆくことはできないのです。しかし私たちはただ信じるところから始めて、何を信じているかということについて理性を用いて思索してゆくのです。それが「神学する」という営みです。理解(知解)することを求める信仰を私たちは神さまから賜って(贈り与えられて)いるのです。

 

「三位一体の教理」をどう理解するか

 「三位一体の教理」も「キリスト両性の教理」も神の「神秘」です。「神秘」である限り、理性では説明しきれない何かが残ります。父なる神、み子なる神、聖霊なる神がおられる。しかし神が三人いるわけではない。一人の神が、父と子と聖霊という三つの位格(ペルソナ=ラテン語で「仮面」の意)においてご自身を示されるのである。三つで一つ、一つで三つというのは、YMCABody, Mind, Spiritという赤い三角形のようなものを想起される方もおられるかもしれませんが、私たちの理解(理屈/論理)を超えています。

 あるカトリックの神父は、公教要理の中で、三位一体についてテストをし、「三位一体について説明しなさい」という問いに対して、一生懸命に答えようとするとX(バツ)を、「分かりません」と書くと「正解です」と言って〇(マル)を与えたというエピソードも聞いたことがあります。私の先輩の渡辺純幸先生は、「三位一体は鰻丼と同じ。ウナギとご飯とタレが三位一体である」と説明したりしています。しかし、それでも私たちには理性が与えられていますので、ある程度それを理性的にも理解したいと思います。

 私は牧師になってちょうど今年で30年なのですが、小教理問答クラスの中では三位一体については次のように四つほどの説明をしてきました。第一はこうです。私という人間は、子供から見れば父親であり、親から見れば子供であり、妻から見れば夫である。私という人間の中に父、子、夫という三つの役割が同居している。三位一体もこれと同じである。

 第二はH2OH2Oというのは水の化学式ですね。水は水素二つと酸素で構成されている化合物であるということです。この水ですが、一気圧の場合に、零度以下では氷(固体)になります。零度から百度までの間では水かお湯(液体)となり、百度以上では水蒸気(気体)となります。H2Oという本質は変わらずに、固体、液体、気体という三つの状態(姿)を変えてゆく。三位一体もこれと同じであると説明するのです。私はこの説明が一番ストンと腑に落ちるように思っています。

 第三は、私自身が小教理問答の中で化学を専門とする方に伺った話です。その方はこう言われました。光には、通常は相容れないと考えられている「波(波動)としての性質」と「粒(粒子)としての性質」の両者が同時に存在している。ですから、私は神が「三位一体の神」であるということは直観的に納得がゆくのです、と。なるほどと思いました。

 第四の説明の仕方はこうです。神は愛ですから、父なる神は御自身の愛を何とかして私たち人間に伝えようとして、三位一体のかたちを取られたと理解するのです。「父なる神」は「御子なる神」の姿を取ってこの地上に降り立たれた。四つの福音書の中でも特にヨハネ福音書は、繰り返し「父と子は一つである」ということを強調しています。主は「わたしを見た者は父を見たのだ」とも言われます(ヨハネ14:9)。そして御子の十字架と復活、昇天を経て、神の聖霊を送るという聖霊降臨の出来事を起こされた。父と子と聖霊はアガペーの愛の本質において等しく、向こう側から私たちを捉え、神の大切な使命のために選び立て、押し出し、それぞれの持ち場に派遣してくださるのです。神の愛を豊かに注ぐため、そのことに気づくように神はご自身の三位一体性をお示し下さったと理解するのです。神はその独り子を賜るほどにこの世を愛されたからです。それは、御子を信じる者が一人も滅びないで永遠の命を得るために、なのです。

 

聖餐への招き

 これから私たちは聖餐式に与ります。三位一体の神のご臨在を深く味わいながら、聖餐に与ってまいりたいと思います。お一人おひとりのうえに神様の祝福が豊かにありますように。アーメン。

 

 

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