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2016年12月 5日 (月)

2016年5月1日(日)復活後第5主日礼拝説教「起き上がりなさい。」

2016年5月1日 復活後第五主日 聖餐礼拝説教 「起き上がりなさい。」    大柴 譲治

ヨハネによる福音書5:1-9

 

三十八年という歳月の重み

 本日の福音書の日課はヨハネ福音書五章の最初ですが、そこにはエルサレムにある「ベトザタ」という池の周りで起こった出来事が記されています。「ベトザタ」は口語訳聖書では長く「ベテスダ」という名前で知られてきましたが、新共同訳では「ベトザタ」と訳されています。「神の憐れみの家」という意味の名前です。主イエスが、その「ベトザタ」の池の周りで、38年間も病気で苦しんできた一人の男を癒されたのです。その病気が何であったかは記されていませんが、手足が麻痺し、身体を自由に動かすことができない慢性的な病気であったことが分かります。このエピソードは、他の三つの福音書には出て来ず、ヨハネ福音書にしか報告されていない出来事です。そこには38年という長さを思う時、私たちはその苦しみの深さ、絶望の深さに圧倒されるような思いに囚われます。ヨハネ福音書は端的に状況を説明しています(1〜4節)。

 

1その後、ユダヤ人の祭りがあったので、イエスはエルサレムに上られた。 2 エルサレムには羊の門の傍らに、ヘブライ語で「ベトザタ」と呼ばれる池があり、そこには五つの回廊があった。 3 この回廊には、病気の人、目の見えない人、足の不自由な人、体の麻痺した人などが、大勢横たわっていた。[彼らは、水が動くのを待っていた。] 4 [それは、 主の使いがときどき池に降りて来て、 水が動くことがあり、水が動いたとき、真っ先に水に入る者は、 どんな病気にかかっていても、 いやされたからである。

 

 3節後半と4節は、括弧に入っていますが、有力な写本の中にはこの部分が記されていないものがあるということを意味していますが、この「神の憐れみの家」と呼ばれる「ベトザタ」の池の周囲にある五つの回廊に集まる人々の、「癒されたい」という藁にもすがるような思いがよく表されている言葉であると思います。彼らはひたすら水が動くのを待っていたのです。皆が一心に水面を見つめていた。天使がおりてきた時にそこに最初に入る人は必ず癒されると信じていたからです。風が吹いても、魚が水面に上ってきて口を動かす度に、人々は我先に池に入っていったのです。その意味では、目の見えない人、身体の不自由な人、池から遠くに位置する人には確かに不利でした。水が動いても池に入ることには時間がかかったからです。

 確かに人は希望の光がなければ生きてゆくことは難しいということは事実であると思います。(何かの歌にあったように)「明日(あした)」という字は「明るい日」と書きますが、私たちはどのような困難(絶望の闇)があっても、前を向いて、明るい光・希望に向かって生きてゆくように最初から造られているのでしょう。創世記の最初に記されている「神は言われた、『光あれ』。すると光があった」(1:3)という宣言は、私には、私たち人間が光に向かって創造されているということをも意味しているように思われて仕方がありません。私たちは闇の中では生きてゆけないからです。私たちには「道」を指し示す光が必要なのです。(ヨハネ福音書の二つの言葉を思い起こします。①ヨハネ14:6「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」。②ヨハネ1:4-5「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。)

 

「良くなりたいのか。」

 5節から9節までをもう一度お読みしましょう。印象的な言葉が続きます。

 

5 さて、そこに三十八年も病気で苦しんでいる人がいた。 6 イエスは、その人が横たわっているのを見、また、もう長い間病気であるのを知って、「良くなりたいか」と言われた。 7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」 8 イエスは言われた。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」 9 すると、その人はすぐに良くなって、床を担いで歩きだした。その日は安息日であった。

 

 「38年」というのは、人の生涯のほとんどすべてを指しています。38年間、彼はベトザタの池のほとりで水が動くのを待ち続けてきたのです。気が遠くなるような長い年月です。(聖書には「40」という数字が出て来ますが、出エジプト後の「荒れ野での40年」とか、イエスを試みたサタンによる「40日間の誘惑」であるとか、「40」は「初めから終りまで」「一生涯」という重たい意味を持つ特別な数字なのです)。

 主イエスの「良くなりたいか」という問いに対するその男の答えが、その38年間という年月の重さを表していましょう。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」彼は何度も絶望的な努力を味わってきました。すべて徒労と失望に終わっていた。しかしそれ以外には、彼には何もその苦しみから抜け出すための手段は見つからなかったのです。他に何の術も持っていなかった。彼は病いの中で孤独であり、孤立していました。誰も彼を助けてくれる人がいなかったのです。

 そこに主イエスが近づいて来て真正面から彼に「良くなりたいか」と問いかけてゆかれます。この「良くなりたいか」という主イエスの問いは、彼の一番奥底にある願望、それは魂の呻きとも言えるものであったでしょうが、深いところにある彼の痛みに触れてゆきます。もしかしたら彼自身が38年間という長い歳月の中で見失っていたかもしれない彼の真の希望に彼自身の目をもう一度開かせてゆくのです。「良くなりたいのか?」「主よ、そうなのです、本心から、私は、良くなりたいのです。しかし誰も私を助けてくれる人はいません。水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです!」

 主イエスはいつも向こう側から私たちのところに近づいて来てくださり、私たち一人ひとりの心の奥底にある魂の飢え渇きに関わって下さいます。それを「スピリチュアルペイン(魂の痛み)」と呼んでもよいでしょうし、「スピリチュアルニーズ」と呼んでもよいでしょう。主は私たちの心や身体の中の、最も痛む部分、痛んでいる部分に手を伸ばして触れて下さるのです。

 主イエスの言葉には真の権威がありました。イエスは言われました。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい」(8節)。この言葉によって彼は癒されます。これまでの38年間、誰もこれほどまでに深く、この自分に関わろうとしてくれた者はいなかった。しかしこのお方だけは違っていました。自分の一番深い所にある痛みに触れて、そこに光をもたらしてくださった。「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」この主イエスの確かな声によって彼の人生は変えられたのです。

 「復活」という言葉は、ギリシア語では「アナスタシス」、「再び立ち上がる、起き上がる」という意味の言葉です。江口再起という名前の先輩がおられますが、復活とはまさに「再起」することです。この場所で「起き上がる」と訳されている語は(エゲイロー)、「復活」という語とは少し違いますが、「もちあげる、raise, up, lift up(米国の礼拝では ”Lift up your heart”という表現をよく聞きました)」という意味の言葉です。「あなたのベッドを担いで身を起こし、歩きなさい」と主は命じておられるのです。そして主が告げられたようになりました。彼は立ち上がり、床を担いで歩き始めたのです。彼の新しい人生が始まったのです。私たちが主イエスと出会うということはそのような出来事が起こるということを意味しています。

 

「しるし」としての奇跡

 その場所にはその人以外にも、病気で苦しんでいた人々が大勢集まっていました。しかしイエスさまはそのうちのたった一人と出会い、彼に深く関わり、彼の病いを癒し、彼を新しい生き方へと立ち上がらせて、そこを去ってゆかれたのでした。ヨハネ福音書では常に「奇跡」は「しるし」としての意味を持っています。「出来事」の背後に深い「意味」が隠されているのです。「しるし」とは、このことを通して、私たちの眼を本当に大切なこと(真実)に向かって開かせ、立ち上がらせるために主イエスが示してくださった救いの出来事です。私たちはこのベトザタ(ベテスダ・神の憐れみの家)の池のほとりで38年間も孤独と徒労と失望の中に待ち続けて、イエスと出会い、新しいいのちの中に立ち上がらされた(復活させられた)男のエピソードの中に、私たち自身と深く関わって下さるキリストの姿を示されています。私たちに「起き上がりなさい」と告げて深く関わって下さるキリストに、私たちもまたご一緒に新しい一週間も従ってまいりましょう。お一人おひとりの上に祝福をお祈りいたします。 アーメン。

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