« 2016年11月27日(日) 待降節第1主日礼拝説教「だから、目を覚ましていなさい。」 | トップページ | 2016年12月11日(日)待降節第3主日礼拝説教「先駆者ヨハネ」 »

2016年12月 5日 (月)

2016年12月4日(日)待降節第2主日礼拝説教「メタノイアはアイノタメ」

2016124日(日)待降節第二主日礼拝説教「メタノイアはアイノタメ」大柴 譲治

マタイによる福音書 3: 1-12

「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。」1-2節)

 

待降節第二主日

 教会暦では先週から「待降節(アドヴェント)」に入っています。「アドヴェント」とはラテン語で「到来する」という意味の語で、主が私たちのところに近づいて来られるクリスマスまでの四週間を、身を清め、自らを吟味し、王なるキリストの到来に備える期節として過ごしてゆくのです。典礼色は悔い改めと王の色である「紫」。その「アドヴェント」には二重の意味があります。一つは主の「第一のアドヴェント(到来)」である「クリスマスを待ち望む」という意味で、もう一つは主の「第二のアドヴェント」である「主の再臨を待ち望む」という意味です。先週から聖卓の横にはアドヴェントクランツが飾られています。主の到来を覚えて、毎週一本ずつ点されるローソクが増えてゆきます。四本のローソクが点された後に、時満ちて、クリスマスがやってきます。

 

「メタノイア(悔い改め)」

 私たちは礼拝では三年周期の改訂共通聖書日課を用いています。昨年はルカを中心に読みましたが、今年はマタイを中心にして読む一年となります。本日はマタイ3章から、洗礼者ヨハネのエピソードが与えられています。そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。」』3:1-3。イザヤ40:3)。イザヤの預言が洗礼者ヨハネにおいて成就するのです。アドヴェントの4週間、洗礼者ヨハネが叫んだように、私たちには近づいてこられる主の道を整えてその道筋を真っ直ぐにすることが求められています。「悔い改めよ。天の国は近づいた」という言葉通り私たちには「悔い改め」が求められているのです。「悔い改め」(メタノイア)とは何かということが本日の主題となります。

 「悔い改め/回心/方向転換」はギリシャ語で「メタノイア」と言いますが、それは字義的には「(人の)思い(ノエオー)を超えてゆくこと(メタ)」です。私たちはともすれば自らの思考や経験に囚われがちですが、それを超えて神に思いを致すことなのです。その意味で「メタノイア」は「神に向かっての方向転換」であり、さらにそれを超えて、単に方向転換をするのみならず「主体の転換」までも含めた、私たち自身の生き方が「(神によって)根源的・根本的に変えられてゆくこと」なのです。メタノイアの主体は私たち人間ではありません。主体は神です。パウロのダマスコ途上での劇的な回心も、復活のキリストが突然まばゆい光の中でパウロに「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかけたところから始まりました(使徒9:4参照)。常にイニシアティブは神にある。先に神からの呼びかけの声(call)があって私たちはそれに応答してゆく。「悔い改めよ。天(=神)の国は近づいた」という声を聴き、この声に従って私たちは自らの身を正してゆくのです。自分の思考や経験や自分の力に頼って(努力して)「メタノイア」が起こるのではありません。神の声が響くときその声によって私たちの中にメタノイアが生起するのです。ちょうど「光あれ」という声でもって光が創造されたように(創世記1:3)。私たちがなすべきことは、そのような神の声に対して心を開き、それにひたすら応答し、無心になってそれに従ってゆくことです。ちょうどマリアが受胎告知の際、自分の理解を超えていたにも関わらず(これまた「メタ・ノイア」です)、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように(Let it be !)」とそれを受け止め、深く思い巡らせていったように(ルカ1:38, 2:19)。もちろん私たちは神の呼びかけに対して自らの心を閉ざし、頑なになってそれを拒絶することもできます。いや、私たちはこれまでそのようにして耳を塞いで生きてきたのかもしれません。しかしそのような中には何の慰めも平安も希望もなかったことを私たちは知っています。

 

洗礼者ヨハネ

 洗礼者ヨハネは次のような人となりをしていました。ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べ物としていた4節)。これは旧約聖書に出てくる預言者エリヤの姿を彷彿とさせます(列王記下1:8)。洗礼者ヨハネはエリヤの再来として位置づけられていたのです。「荒れ野」は人間の力を拒絶する場所です。そこは人が自分の力に頼っていては生きてゆくことができない場所であり、それゆえにそこは神がご自身を現される「神顕現の場」なのです。そのような荒れ野でエリヤの再来を思わせる洗礼者を通して神の声が響くのです。彼の呼びかけの声に人々は深く打たれ心動かされ、続々と集まってきます。罪の赦しを求めヨハネから洗礼を受けたのです。そこで、エルサレムとユダヤ全土から、また、ヨルダン川沿いの地方一帯から、人々がヨハネのもとに来て、罪を告白し、ヨルダン川で彼から洗礼を受けた5-6節)。

 ヨハネはしかし当時の宗教家たちに対しては厳しい言葉を投げかけます。ヨハネは、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見て、こう言った。『蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ。「我々の父はアブラハムだ」などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる』7-10節)。この言葉を聴くと私たちは身がすくむ思いがいたします。私たちの誰一人としてこのような主の厳しい裁きの言葉の前に立ちうる者はいないだろうと思うのです。彼らはどこかで自分たちはアブラハムの子孫であると自負し安心していたのでしょう。しかし人間の出自や敬虔さや知識の量で救いは得られない。ただ打ち砕かれて己の罪を悔い、低くされて自らの罪深さとどうしようもなさを嘆く者だけが神の真の救いへと導かれてゆくのです。

 

「メタノイア」は「アイノタメ」

 ヨハネは自分の後から神の権威をもって到来する方を指し示しています。自分は水で洗礼を授けるがその方は聖霊と火によって洗礼を授けると言うのです。ヨハネは先駆者なのです。わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。そして、手に箕を持って、脱穀場を隅々まできれいにし、麦を集めて倉に入れ、殻を消えることのない火で焼き払われる11-12節)。キリストが裁き主として到来することをヨハネは予告します。しかしそれは私たちの思いを遙かに超えていました(これまた字義通り「メタ・ノイア」)。王として主イエスが頭にかぶられたのは茨の冠であり、大歓声によってではなく嘲笑と蔑みと阿鼻叫喚の叫びの中で迎えられ、その玉座であるゴルゴダの十字架の上に座していったのでした。しかしこの十字架に架けられ、無力なまま息を引き取ったお方の中に、私たちの罪は赦され神による永遠の救いが成し遂げられていった。悔い改めを表す「メタノイア」という言葉を日本語で書いてみると不思議なことに、左から読むと「メタノイア」ですが右から読むと「アイノタメ」となる。メタノイアはアイノタメ。私たちをもう一度神との義しい関係の中に招き入れるために、神はその独り子を賜るほどにこの世を愛された。神のアイノタメに私たちの中にメタノイアは起こり、私たちメタノイアを体験した者は愛と喜びに満たされて、アイノタメにそれぞれの場に派遣されてゆくのです。主の十字架を見上げる時に、すべてがパアーンと開かれて見えてくる。繋がってくる。本日もまた聖餐式が行われます。ここに私たちを生かす究極の神の愛があります。この愛をいただいて私たちは生きるのです。

« 2016年11月27日(日) 待降節第1主日礼拝説教「だから、目を覚ましていなさい。」 | トップページ | 2016年12月11日(日)待降節第3主日礼拝説教「先駆者ヨハネ」 »

心と体」カテゴリの記事