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2016年12月11日 (日)

2016年12月11日(日)待降節第3主日礼拝説教「先駆者ヨハネ」

20161211日(日)待降節第3主日礼拝説教「先駆者ヨハネ」        大柴 譲治

イザヤ書 35:1-10

マタイによる福音書 11:2-11

ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」2-3

 

 洗礼者ヨハネの使命

 本日は待降節(アドヴェント)第三主日。ローソクが三本点されました。いよいよクリスマスが近づいて来ました。本日は、先週に続いて洗礼者ヨハネについてのエピソードが与えられています。先週はマタイ3章から「荒野で叫ぶ声」としてヨハネが登場したことを聞きました。「そのころ、洗礼者ヨハネが現れて、ユダヤの荒れ野で宣べ伝え、『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言った。これは預言者イザヤによってこう言われている人である。『荒れ野で叫ぶ者の声がする。「主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」』3:1-3。イザヤ40:3)。イザヤの預言はヨハネにおいて成就したのです。本日の日課にはヨハネの弟子たちが登場しますが、イエスご自身もヨハネから洗礼を受けられていたために、ヨハネ自身が「自分は後から来る方の履物をお脱がせする値打ちもない」と言っているにもかかわらず、最初はヨハネの弟子の一人として位置づけられていました。ヨハネからイエスは神の使命を引き継いでゆくのです。その延長線上で本日の福音書は意味を持っています。

 本日は洗礼者ヨハネが獄に捕らえられたところから始まります。彼は領主ヘロデ・アンティパスの結婚を批判したために捕らえられ、やがてヘロデの娘の踊りの褒美として首をはねられて殺されてゆきます(マタイ14:8)。人間的に見れば何と痛ましい、何と不本意な役割でありましょうか。しかしヨハネは神から与えられた先駆者としての「荒野での声」の使命をキチンと果たした後に、キリストのための殉教者の一人となっていったのでした。本日私たちは神の御心を第一として生き抜いた先駆者ヨハネに学びたいと思います。

 

ヨハネの問いかけとイエスの応答

 ヨハネは獄中からイエスのもとに弟子たちを派遣します。ヨハネは牢の中で、キリストのなさったことを聞いた。そこで、自分の弟子たちを送って、尋ねさせた。『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』」2-3節)。ヨハネは、本当に自分は正しかったのか、この人は本当に自分がすべてを賭けて待ち続けた人だったのか、獄中で不安になり迷ったのかも知れません。彼はイエス自身の言葉によって自分の果たしてきた役割を確認したかったのです。

 それに対する主イエスの答えは明快です。イエスはお答えになった。『行って、見聞きしていることをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである』 4-6節)。これは本日の第一日課であるイザヤ35章の預言の成就です。そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる35:5-6)。そこにはメシア到来のしるしが告げられています。ヨハネはこのイエスの言葉に「自分はあれでよかったのだ」とホッと安堵したに違いありません。ヨハネは先駆者としての自分の役割を改めて確認することができました。自らの人生が無意味ではなかったということを知ることができる人は幸いです。私たちは誰しもが意味ある人生を送りたいと思っているからです。来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんかというヨハネのイエスに対する問いは、私たち人間が各人の心(たましい)の根底に抱えている問いなのです。私たち自身も救いを待ち望んでいるからです。アドヴェント(待降節)は「救い主の到来」に思いを馳せて過ごす四週間です。私たちのところに向こう側から近づいてきてくださるお方がおられる。その方は「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」と語られました(ヨハネ15:16)。イニシアティブは常に主の側にあります。主がその確かなみ声をもって私たち一人ひとりの名前を呼んでくださった。その呼びかけに私たちは応答してゆくのです。

 

先駆者ヨハネ

 本日の日課を読むと私などは洗礼者ヨハネに対してとても親近感を持ちます。彼ほどの強い信仰者であっても人間的に揺れ動く弱い部分を持っていたことに深い共感を覚えるからです。私たち人間の側には「信仰の確かさ(確証)」はありません。いつも心は弱さの中で揺れ動いている。そのような私たちの弱さを含めてすべてを主は知っておられます。だからこそ私たちは、いつもイエスの言葉、イエスの声を繰り返し聴いてゆくことが必要なのです。その声と言葉によって私たちは信仰的に支えられ、守られ、導かれてゆくからです。私たちが毎週日曜日にこの場所に集まるのも主イエスの声に聴くためです。私たちは自分が置かれた日常生活の中で、ともすれば過酷で困難な現実の中で、迷ったり不安になったり行き詰まったり倒れたりすることばかりです。そのような中で神の御心に思いを馳せるために私たちは今ここに集められているのです。ヨハネは獄中にあって自分のこの世での人生の終りを意識しながら、人生を振り返り、神の御旨の実現を主イエスに求めたのでした。来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」。このヨハネの発した根源的な問いはイエスによってしっかりと受け止められて答えられました。

 ヨハネはイエスの道を備える先駆者としての役割を果たしました。それと同時に彼は、私たち自身の信仰の先駆者としての役割をも果たしているのだと私は思います。私たちが迷ったとき、行き詰まったときにどうすればよいかをヨハネは私たちに教えてくれているのです。主イエス・キリスト。このお方のところに私たちは行くべきなのです。このお方が私たちの真剣な問いかけに答えてくださいます。このお方が歩まれた一本の救いの道、それは十字架を通して復活に至る救いの道ですが、その道が私たちに与えられているのです。信仰者ヨハネと共に私たちもまた、深い喜びと慰めを味わいつつ、主に従ってまいりたいと思います。

 

聖餐への招き

 本日もこれから聖餐式が行われます。聖餐式は私たちがやがて終りの日に味わう天上の祝宴の先取りです。「これはあなたのために与えるわたしの身体。これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」。こう言って私たちにパンとブドウ酒を差し出して私たちにご自分のすべてを与え、私たちを新しいいのちへと招き入れてくださった主の呼びかけにご一緒に与りたいと思います。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)。

 お一人おひとりの上に主の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。 アーメン。

 

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