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2016年12月 5日 (月)

2016年11月6日 全聖徒主日礼拝説教「天上の教会、地上の教会」

2016116日 全聖徒主日礼拝説教「天上の教会、地上の教会」    JELC大阪教会 大柴 譲治

ルカによる福音書 20:27-38

「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」38節)

 

時の中心

 聖書は私たちに世界には始まりと終わりがあると告げています。旧約聖書の一番最初に置かれた創世記は世界の始まり、歴史の始まりを伝えています。創世記は「光あれ!」という声によって神が天地創造を始められたということを。その神の光の中にすべてが置かれているというのです。神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である(創世記1:31)。また、こうも告げています。「主よ、わたしたちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。あなたは万物を造られ、御心によって万物は存在し、また創造されたからです」(ヨハネ黙示録4:11)。

 新約聖書の一番最後にあるヨハネ黙示録は世界の終りについての神の言を伝えています(21:1-7)。わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。『見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。』すると、玉座に座っておられる方が、『見よ、わたしは万物を新しくする』と言い、また、『書き記せ。これらの言葉は信頼でき、また真実である』と言われた。また、わたしに言われた。『事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。初めであり、終わりである。渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。勝利を得る者は、これらのものを受け継ぐ。わたしはその者の神になり、その者はわたしの子となる。』

 聖書は私たちに世界の始まりと終わりだけでなく、中心があるということをも告げています。それは「時の中心」とも呼ぶべき出来事で、「時」充ちるようなかたちで起こった「イエス・キリストの出来事」です。即ちキリストの受肉(クリスマス)と十字架(受苦日)と復活(イースター)の出来事、私たちの救いのために神が備えてくださった出来事、二千年前パレスチナにおいて歴史の中で起こった神の救いの出来事でした。「神はその独り子を賜るほどこの世を愛された」と。それは「御子を信じる者が独りも滅びないで、永遠のいのちを得るため」でした(ヨハネ3:16)。

 特に主の復活の出来事は、それまでの人間の歴史とその後の人間の歴史を完全に分断し、天地の万物を神の新しい光の中に置くほど決定的な出来事でした。すべてはこのキリストの復活の光の中で受け止め直されてゆきます。旧約聖書もこの新約聖書の光の中で読み直されてゆくのです。ヨハネ福音書が宣言している通りです。「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(ヨハネ1:1-5)。神からの光は闇の中に確かな光を放って今も輝き続けています。

全聖徒主日にあたって

 私たちは本日全聖徒主日を守っています。それは召天者記念主日とも呼ばれます。本日は召天者を覚えてこの礼拝に集ってくださった方々が少なからずおられます。146名の召天者のお名前を記させていただいた名簿を本日は週報と共にお渡しいたしました。そのうちの35名の方は(裏面参照)、この教会の納骨堂に収められている方々です。また聖卓の前には100人ほどのお写真が並んでいます。懐かしいお顔がたくさん見受けられることでしょう。懐かしいあの声この声が笑顔の中から聞こえてくるようでもあります。来年でこの大阪教会は宣教百年を迎えますが、このような信仰の先達たちの足跡と証しの上に、今日の大阪教会が置かれているということを心に刻みたいと思います。闇の中に輝いている神の光を信仰の諸先輩方は証しし、指し示し続けているのです。

 

神は、死んだ者の神ではなく、生きている者の神であり、すべての人は神において生きる。

 本日の福音書の日課の中で主イエスは、復活などあり得ないと主張していたサドカイ派(祭司階級に多かった)に対して、復活を肯定するファリサイ派と同じそれを肯定する立場を立っています。紀元前1200年頃に生きたモーセが、恐らく紀元前1900年頃に生きたアブラハムら父祖たちが今も神にあって生きていると出エジプト記の中で証言しているではないかと主はここで告げているのです。サドカイ派はモーセ五書のみ(創世記から申命記まで)を重視しており、そこには復活は出て来ませんので復活などありえないという立場を取っていました。跡取りを残すために定められていた「レヴィレート婚」というユダヤ教の律法を持ち出してきて、復活ということに内包される論理的な矛盾を突いています。律法に従って七人の男性(兄弟)と次々と結婚した女性は復活後に誰の妻になるのかという問題を持ち出してきているのです。しかし主イエスははっきりと答えています。この世とあの世では異なった秩序が存在しており、もはや死が存在していない彼岸の世界では子孫を残すためのこの世の秩序である「結婚」という事柄は既に役割を終えているというのです。「イエスは言われた。『この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主をアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである』(ルカ20:3438)。すべての人は、生者も死者もすべて、神によって、神において生きるのです。

 この言葉は私たちに主イエスの次の言葉を想起させてくれます。「わたしは復活であり、いのちである。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、けっして死ぬことはない。これを信じるか」(ヨハネ11:25-26)。もう一つ、主は十字架の上で「Remember me(私を思い起こしてください)」と言う一人の罪人に対して告げられました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)。これも深い慰めの言葉です。

 

祝宴への招き〜天上の教会と地上の教会

 本日は聖餐式が行われます。聖餐式は天上の祝宴の先取りです。今日は召天者の写真が前に置かれていますが、キリストの礼拝とはいつも、聖卓を中心として、見えるこちら側には私たち生ける者が集いますが、見えない向こう側には天に召された聖徒の群れが集っているのです。なぜなら十字架の上に死んで、陰府に降り、三日目によみがえられたキリストは、生者と死者の両方の救い主だからです。私たちは生きるとしても主のために生き、死ぬとしても主のために死ぬのです。生きるとしても死ぬとしても私たちは主のものだからです。ここでは天上の教会と地上の教会が共にキリストの祝宴に招かれています。「これはあなたのために与えるわたしの身体。これはあなたの罪の赦しのために流すわたしの血における新しい契約」と言って私たちにパンとブドウ酒を通してご自身のいのちを差し出すことを通して、天地万物が揺れ動いても決して揺れ動くことのない神の新しい祝福の光の中に私たちを招き入れてくださった主のみ声にご一緒に聴き従ってまいりましょう。 お一人おひとりの上に主の祝福が豊かにありますようにお祈りいたします。アーメン。

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