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2016年12月 5日 (月)

2016年11月27日(日) 待降節第1主日礼拝説教「だから、目を覚ましていなさい。」

20161127日(日) 待降節第1主日礼拝 説教「だから、目を覚ましていなさい。」    大柴 譲治

マタイによる福音書 24:36-44

その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである。・・・だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。」36, 42節)

 

待降節(アドヴェント/Advent)にあたって

 「教会暦」によれば、今日が「待降節(アドヴェント)第一主日」。本日から新しい一年が始まります。少し変な感じがしますが、「あけましておめでとうございます」という新年の挨拶をもって始めることもできる日です。「advent」とはラテン語で「到来する、来る」という意味の言葉です。礼拝で用いる典礼色は悔い改めの色であり王の色でもある「紫」です。主が私たちのところに近づいてこられるクリスマスまでの四週間を、身を清め、自らを悔い改め、王なるキリストの到来に備える季節として過ごしてゆくのです。

 「アドヴェント」には二つの意味があります。主の「第一のアドヴェント」である「クリスマスの到来を待ち望む」という意味と、主の「第二のアドヴェント」である「終りの日の再臨の主を待ち望む」という意味です。私たちは「第一」と「第二」の二つのアドヴェントの間の「時」を生きています。今日から聖卓の横にはアドヴェントクランツが飾られています。「クランツ」はドイツ語で「円」「輪」を意味しますが、それは「終りがない永遠の生命」を意味します。私たちのところに近づいて来られる主の到来を覚えて、これから毎週一本ずつ点されるローソクが増えてゆきます。四本のローソクが点された後にクリスマスがやってくるのです。眼に見える形で、私たちのところに近づいてこられる主の到来を覚えるのです。礼拝堂の入口にはポインセチアも飾られました。今日礼拝後には子どもたちや青年によってエントランスロビーにクリスマスツリーも飾られることになっています。アドベントの四週間、私たちは主の到来に備え、私たちの心の中に主を迎える備えをしてまいりたいと思います。

 

「終りの日」に備える〜「目を覚ましていなさい。」

 本日の福音書で主イエスはこう言われます。その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである36節)。「その日、その時」とは「世界の終わりの日」「最後の審判の日」のこと。その日には「人の子(=キリスト)がこの地上に再臨する」と予告されています。その日がいつ来るのか、ノアの時代に洪水が起こった時のようにそれは突然起こるので、それがいつ来るのか誰も知らないと言うのです。ただ天におられる父だけがご存知です。人の子は「思いがけない時に来る」44節)。私たちが知っておくべきことは「必ず終わりが来る」ということであり、その終わりを意識して「今ここ」をしっかりと生きることです。

 私は三年半ほど、教会を牧会しながら、非常勤のチャプレンとしてホスピス(緩和ケア病棟)に関わりました。ホスピスはガンで余命半年と医師に診断された人が、痛みの緩和ケアを行うということで最後の時を過ごすために入ってくる病棟です。チャプレンの仕事は患者さん一人ひとりが抱えているスピリチュアルペインに対処することでした。ご高齢の方もおられましたが働き盛りの方もおられましたし、中には青年もおられました。「どうして自分はこのような病気になってしまったのか」「どうして自分はこのようなかたちで人生を負えなければならないのか」「自分の人生にはどのような意味があったのか」「自分は死んだらどうなるのか」など、「愛する者との別離は本当に辛い」と涙を流された方もおられます。「自分はやがてポラリス(北極星)になる。あなたはカシオペアだ。夜になったらポラリスを見上げなさい」と奥さまに語っておられた熟年の方もおられました。「自分の人生には深い悔いが残っていて、このままでは死にきれない。チャプレン、どうか話を聞いていただけますか」と願われた方もおられました。チャプレンとは、布教活動をするのではなく、求められたらキリスト教の話もしますが、その基本的な働きは患者さんが人生の中で大切にしてきたことを共感的な受容と傾聴を通して受け止め、患者さんに寄り添ってゆく役割を果たします。そのためにどれだけ患者中心(Client-centered)になれるか厳しい訓練を受けます。

 私たちは死を意識する時、同時に生をも振り返ります。「生」と「死」は別々の事柄ではなく、「死生観」という語にも表わされているように、一枚のコインの裏と表として捉えるべきものでありましょう。それらは区別はできても分離はできない表裏一体の事柄であり、日本人はそれを「生死(しょうじ)」という一語で捉えてきました。ソクラテスは「哲学」とは「死の練習」であり、「よく生きることはよく死ぬことでもある」と考えたのです。死について考えることは生について考えることでもあります。上智大学でかつ「デス・エデュケーション(死の準備教育)」を教えていたアルフォンス・デーケン神父は、その授業の最初に学生たちに次のように問うたそうです。「もしあなたが余命半年だとしたら、どのようにその半年を過ごしますか」と。学生たちは自分の生の時間が限られていたらどのようにそれを使うだろうかを真剣に考えたそうです。死を意識すると私たちのこの人生が有限であり、いのちのかけがえのなさというものがよく見えてきます。残された時間をどのように使うかということの中に、自分が大切にしているものは何か、自分を根底において支えているものは何かという自己の価値観が明らかになってゆくのです

 

終わりを意識しつつ、今を生きるということ

 「だから、目を覚ましていなさい。その日に備えて用意しておきなさい」と主イエスは言われています。この言葉で私は次の二つのことを思わされます。一つは、当たり前のことですが、私たちは常に目を覚まし続けていることはできないのですから、主はここで私たちに「不眠」を命じている訳ではありません。眠れなくなってしまうと、私たちは簡単に病気になってしまいます。だからこの言葉は、「いつその時が来てもよいようにアンテナを張って、その日に備えていなさい」ということなのです。要所要所で覚醒してゆくという生き方の構えが求められていると私は理解します。マタイ25:1-13には花婿の到来を待ち続ける10人の乙女がでてきますが、そのうちの5人は愚かで、花婿が遅れて夜中に到着したときには灯火の油を切らせてしまいます。しかし他の5人は賢くも予備の油を準備していました。備えあれば憂いなしが賢さで、憂いあっても備えなしが愚かさなのです。「だから、目を覚ましていなさい」ということで、いざというときのために準備をしておくことが求められているのです。

 もう一つ私がこの言葉によって思わされるのは、どのようなことが主を迎える正しい準備なのかということです。聖書は創世記1章で人間が「神の似姿imago dei」に造られたことを告げています。創世記2章では土の塵で形づくられた人間の鼻に神が命の息を吹き入れると人間が生きたものとなったと告げられています。いずれにしても人間は神との関係の中に生命を与えられているということが前提となっています。神との正しい関係に生きることが私たちには求められているのです。アドヴェントの主題でもある「悔い改め/回心」(メタノイア)とは、神に向かって方向転換をすることです。方角を示す磁石(コンパス)が地球の磁気(地磁気)に反応して必ず北を向いてピタッと止まるように、私たち人間の魂も地球を包む神の愛の地磁気に反応して神に向かってピタッと止まるように最初からそのように造られているのです。だから神をキチンと指し示すときに私たちは本当の平安を与えられます。アウグスティヌスは言いました。「神よ、あなたは私たちをあなたに向かって造られました。だから私たちの魂は、あなたの中に安らぎを見出すまでは、決して憩うことはないのです」(『告白』)

 昔『北北西に進路を取れ』というタイトルの映画がありましたが、私たちは神に向かって進路を取るようにと最初から創造されているのです。数年前のJELC全国総会で引退を前にしたフィンランド人宣教師のパーヴォ・ヘイッキネン先生が「私たちのターゲットは天国です」という最後のご挨拶をされました。まことにその通りであります。私たちは神によって、神との関係の中で、神に向かって生きるように造られているのです。その「神のかたち(似姿)」を私たちの中に回復し、私たちが神との正しい関係に再び生きることができるようにと、主はこの地上に降り立ってくださいました。アドヴェントを迎えて、私たちはそのことの意味をもう一度心に深く刻みたいと思います。

 お一人おひとりの上に向こう側から近づきつつある主の恵みが豊かにありますようお祈りします。 アーメン。

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