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2016年12月 5日 (月)

2016年11月20日(日)聖霊降臨後最終主日(王なるキリストの日)礼拝説教「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」

20161120日(日)聖霊降臨後最終主日(王なるキリストの日)

礼拝説教 「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」  大柴 譲治

ルカによる福音書 2333-43

そして、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と言った。するとイエスは、「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と言われた。(42-43節)

 

主キリストに結ばれた「人生の終り」に思いを馳せる

 教会で用いている教会暦によれば、今日が一年で一番最後の主日礼拝となります。本日は「王なるキリストの日」と呼ばれる日でもあり、キリストの御支配が天地万物のすべてを貫いていることに思いを馳せる日です。次週27日(日)よりは、クリスマスの四週間前から「待降節(アドベント)」という紫の典礼色の時期が始まり、自らの罪を悔い改めて主の到来に備える中で新しい一年を迎えてゆくのです。先週も「この世の終り」についてみ言葉から聴きましたが、本日も私たちは「いのちの終り」と「天におけるいのちの始まり」について聴いてゆきます。第二次大戦中ヒトラー暗殺計画に荷担した罪で逮捕され、牢獄で絞首刑にされたディートリッヒ・ボンヘッファーというルーテル教会牧師が最後に遺した言葉を思い起こします。「これで最後です。しかしこれがいのちの始まりです」。教会暦の終りにあたって私たちは生と死を超えたキリストの御支配に思いを馳せてまいりましょう。

 本日の福音書の日課にはルカが記録した主の十字架の場面が記されています。主イエスが十字架上で残した七つの言葉があります。それらは教会讃美歌86番に記されているのでぜひご参照ください。本日はそのうちの二つが記録されています。どちらもルカだけが記録している貴重な言葉です。一つは34節の「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」で、これが記録されていない重要な写本(昔は手で筆写されました)があるためにカギ括弧に入っています。もう一つは43節の、十字架に架けられている罪人の一人で「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してくださいと願い出た者に告げられた「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という言葉。本日は特に後者のみ言葉を中心にして、そこに焦点を当ててゆきます。

 

対照的な二人の犯罪人

 イエスは「されこうべ(

骸骨

(

がいこつ

)

/ゴルゴダ/カルバリー)」と呼ばれる場所で多くの人々から嘲笑され蔑まれる中、十字架に架けられてゆきます。そしてイエスの右と左にも二人の犯罪人が十字架につけられました。イエスは預言の通り「罪人の一人に数えられた」(ルカ22:37)のです。34-38節を読むと、「人々」はくじを引いてイエスの服を分け合い、「民衆」は立ってそれを見つめています(詩編22:18-19)。議員たち」はあざ笑って言いました。「他人を救ったのだ。もし神からのメシアで、選ばれた者なら、自分を救うがよい」。ローマの兵士たち」はどうかというと、イエスに近寄って酸いぶどう酒を突きつけながら侮辱して言った。「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」。イエスの頭上には「これはユダヤ人の王」と書いた札も掲げてありました。

 十字架とはローマ帝国の反逆者に対する極刑でした。処刑される者の無力さを公的に曝すような残酷な死刑方法だった。二人の犯罪人たちは暴力的な行為をもってローマに背いたのでしょう。おそらくは何人ものローマ兵たちを殺めるという罪を犯しています。二人は仲間で、お互いに相手をよく知っていました。二人は同罪だったのです。しかしイエスに対する態度は対照的です。一人は最後まで十字架上からイエスをののしり続けるのです。「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」」(39)。それに対してもう一人は自分の罪を自覚しつつ、イエスが無実であり、このような極刑に値しないお方であることを知っています。「すると、もう一人の方がたしなめた。『お前は神をも恐れないのか、同じ刑罰を受けているのに。我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない』」(40-41節)。そしてイエスにこう願い出ます。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」。英語で言えば「リメンバー・ミー」。すると彼はイエスから驚くべき言葉を与えられました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。この言葉は考えれば考えるほど人間には語り得ない言葉です。み子なる神にしか語り得ない救いの言葉でした。

 

「人生とは神さまと出会うためにあるのではないでしょうか。」

 牧師をしていますと様々な忘れられない出会いが与えられてゆきます。一つひとつの出会いとお一人おひとりの存在がかけがえのないものなのだと強く思わされるのです。地縁でも血縁でもなく、それはキリストによって呼び集められた「キリスト縁」とも「聖霊縁」とも呼ぶべき出会いです。真の人生は出会いです。中学校三年生の担任が、「一期一会」という茶の湯の言葉を教えてくれました。それは「目の前に座っている客人との出会いは生涯ただ一度限りのものかもしれない。だから心を尽くして、悔いのないようにもてなせ」という意味の言葉です。英語ではこうなります。「Treasure every moment/encounter, for it never recurs.」(一瞬一瞬の出会いを宝物のようにせよ、それは二度と生起しないのだから)。

 私が米国から帰国した時のことです(19978月)。着任した武蔵野教会は石居基夫牧師の後、一年半ほど牧師がいなくなりました。その時に神学校校長であった徳善義和先生がピンチヒッターで主任牧師としての役割を果たしてくださいました。その頃一人の女性が求道を始めておられました。ガンのために余命数ヶ月しかないという医師の診断を得て、友人の通う武蔵野教会で求道生活を始めたのです。徳善先生から私にバトンタッチが行われ、小教理の学びを終えて1997年のクリスマスに受洗されました。そして次の年のペンテコステの直後、64日、47歳の若さでこの地上でのご生涯を終えて天へと帰って行かれたのでした。結婚してちょうど25年のご主人と三人のお嬢さんを残してゆかれました。亡くなる三日程前に聖ヨハネ病院ホスピスにお祈りに伺った時のこと。病床聖餐式を行った後、その方は美しい眼差しと笑顔の中でこのように語られたのです。私にとっては忘れることのできない言葉でした。「先生、もしかしたら間違っているかも知れませんが、人生は神さまと出会うためにあるのではないでしょうか」。「そして神に仕えるということは身近な隣人に仕えるということなのでしょうね」。愛する家族のために病いを克服しようと様々な治療にチャレンジしてこられた方でした。どれほど無念な思いと闘いながら苦しんできたことでしょう。その中で彼女は「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」という主の確かな声を聞いたのだと思います。キリストの救いと出会ったのです。

 信仰は私たちに、復活者キリストとつながって生きることで死によっても失われることのない真の希望を与えてくれます。「人生は神さまと出会うためにある」。この方の信仰告白の言葉です。その方が記された受洗の動機です。「病を得て、『死』を身近なものとして感じた時、現在のあるがままの自分を神に委ね、いついかなる時も(健康な時も、病いにある時も、生きている時も死んでからも)私と共にいてくださるという神との関係をより確かなものとしたかった。また、私が受洗する事により家族の者たちが、死んだ後の私がどのような気持ちで、どこに行くのか思い描く手立てとなり、私の『死』を受け入れやすくなると考えて」。不思議な導きの中、その方のご長女が16年の歳月を経て2014年の復活日に受洗されました。天国にはさぞかし大きな喜びがあったことでしょう。神のなされることは皆その時に適って美しいと言わなければなりません。

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