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2016年12月 5日 (月)

2016年10月30日(日) 宗教改革記念主日礼拝説教「リ・フォーメイション」

20161030日(日) 宗教改革記念主日礼拝説教 「リ・フォーメイション」     大柴 譲治

ガラテヤの信徒への手紙 5:1-6

この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。」1節)

 

ルーテル教会に所属する幸い

 私は自分が宗教改革の流れを引く「ルーテル(ルター派の)教会」に導かれたことを心から感謝しています。そのような思いを持つ方はこの中にも少なくないと思います。なぜかというとルーテル教会の際立った特徴は、いつも「中心的なもの」「一番大切なもの」が何であるかということに問い続け、そこに集中してゆこうとするからです。そしてその中心的なものからすべてを、周辺的なものを見てゆこうとするのです。その意味で私は、ルーテル教会は大変にシンプルで理解しやすい教会であると思っています。

 たとえば「宗教改革の三大原理」。それは「聖書のみ」「信仰のみ」「恵みのみ」という語で表されます。ヨハネ3:16「神はその独り子を賜るほどにこの世を愛された。それは御子を信じる者が独りも滅びないで、永遠のいのちを得るためである」というみ言葉がありますが、若き頃のガリガリに瘦せて苦渋の様相に満ちた神経質そうなルターを見ると、この「独り子イエス・キリストを賜るほどにこの世を愛してくださった神の愛」との出会いを求めて苦しみ続けた独りの求道者の姿がそこに浮かび上がってきます。

 若い頃のルターは死と罪の問題に苦しみ続けました。実存的な問題に苦しみ続けたとも、自らの「スピリチュアルペイン」に苦しみ続けたとも言えましょう。ルターはエルフルト大学の法学部の四年生の時(1505年、22歳)に落雷を受けるという死の恐怖を体験したのを機会に、親にも相談もせず(結局父親の反対を押し切って)修道院に入ってしまいます(今その落雷の場所には「歴史の転換点」という碑が立つ)。そしてそこで自分の罪の問題に半端ではなく苦しみ続けたのです。カトリック教会には「告解」制度があります。告解室に入って聴罪司祭(罪の告白を聴いてくれる司祭)の前で、自分の罪を悔い(①痛悔)、告白し(②ざんげ告白)、償いをし(③償罪)、罪の赦しの宣言を受けるのです(④赦免)。ルターは告解を終えて告解室を出た途端に、告白し忘れていた罪を思い出して再度告解室に飛び込んでゆくといったような病的とも思えるような有様だったと伝えられています。「いかにすれば私は神の義を獲得できるのか」という点で、ルターは苦しんで苦しんで苦しみ抜いたのです。それは出口の見えない真っ暗闇のトンネルのようなものでした。ルターはその苦しみの闇の中で聖書のみ言葉に集中してゆきます。学生たちに講義をするためにルターは詩編を読み続けて、やがて30歳の頃、ルターは「塔の体験」という劇的な救いの体験を経験してゆくのです。「一点突破全面展開」(鈴木浩)とも言うべき体験です。「義なる神」「罪を裁く神」がキリストにおいて人間の罪を赦す「恵みと恩寵の神」であることに眼が開かれてゆくのです。それはルター自身における魂の救いの出来事であり、宗教改革運動の核となるべき出来事でした。「いかにして私は神の義を獲得できるか」という問いから「神は私をその恵み(恩寵)をもって、信仰を通して義として下さった」という認識へと突破していったのです。主語が「私」から「神」へと移っていることに注意して下さい。ルターはその実存的霊的な苦しみの中で「自分」が打ち砕かれ、自分のために十字架に架かってくださったイエス・キリストと出会うことができたのです。神がキリストにおいてルターを捕らえて下さったのです。これは「コペルニクス的転換」でもありました。「天動説」から「地動説」への転換です。自分中心であったルターは、聖書のみ言葉を通して神中心の信仰の次元に招き入れられてゆきます。この出来事は「神の義の再発見」の出来事でもあり、「神との義しい関係の回復」の出来事でもありました。イエス・キリストにおける神の豊かな愛にルターは目が開かれたのです。ルターにとっての根源的な問題であった「罪と死の問題」「生の意味の問題」は、イエス・キリストの救いの出来事から答えが与えられてゆきました。神が人となったという「神の受肉」の出来事は生きることには意味があるということを示していますし、「十字架」は罪の赦しを、「復活」は死からの解放を示しています。私たちは自分の行いによるのではなく、100%神の恩寵により、全く無代価で、救いを与えられているのです。

 ルター自身の実存的な苦難との格闘が当時の民衆が持っていた救いへの霊的な渇望と重なったことが分かります(贖宥券問題)。贖宥券を購入するということを通してではなく、ただキリストを信じるという信仰を通して神の義が人間には無代価で贈り与えられている。パウロの発見した真理の再発見でもありました。そこから「聖書のみ」「恵み(恩寵)のみ」「信仰のみ」という宗教改革の三大原理が明確にされていった。ルターはそのように「中心的なもの」から「周辺的なもの/アディアフォラなもの」を見直してゆきました。私自身はその救いの出来事を「神による究極的な存在是認」と呼びたいのですが、「恩寵義認」(江口再起)と表す人もいます。

 

宗教改革(Re-Formation)記念主日にあたって

 本日私たちは「宗教改革記念主日」を守っています。15171031日にルターがウィッテンベルク城教会の扉に、贖宥券(「免罪符」)についての公開討論会を求める「95箇条の提題」をはりだしたところから始まったとされる「宗教改革運動(リ・フォーメイション)」は、あと一年で500年の節目を迎えます。明日夜には(日本時間22:30)スウェーデンのルンドでカトリック教会のフランシスコ教皇と世界ルーテル連盟(LWF)の共同の祈りの時が持たれます。インターネットで実況中継がありますので、お時間のある方はぜひごらんください。本日の典礼色は赤。それは聖霊の燃える炎の色、血潮の色を表しています。神からの命の息吹である「聖霊」が私たちに注がれ、私たちを刷新してゆくことを表しています。

 「reformation」という言葉を私は長い間、恥ずかしいことに「リフォームすること」と誤解していました。何か教会や制度をリフォームする(改装する)ことだと思っていた。それは表面的な理解にしかすぎませんでした。実は「フォーメイション」という言葉はもっと動きのある言葉です。「reformation」とは「フォーメイションを変えること」なのです。サッカーやラグビーで攻撃や守備のフォーメイションを変えるということがよく言われますが、それは現実に応じて、現実と向い合ってゆくために、自由に、そして臨機応変に、「編成/隊形/陣容」を変えてゆくことを意味しています。宗教改革の教会は、キリストの教会であり続ける限り、私たち人間の現実にキチンと向かい合って行くためにフォーメイションを変えてゆく必要があるというのです。中心的なところを踏まえればこそ、それが可能となるはずなのです。

 

「真理はあなたがたを自由にする」

 本日は使徒書の日課としてガラテヤ書の5章が与えられています。そこではパウロは律法(特に割礼)からの自由を強調しながら次のように言っています。この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷の軛に二度とつながれてはなりません。キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切です」1, 6節)。ヨハネ福音書の8:32には「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする」というイエスの言葉がありますが、このパウロの言葉はそれに呼応する言葉です。かつてエジプトの奴隷であった神の民がモーセによって出エジプトの出来事を通して解放されていったように、今や新しいモーセであるキリストが私たちを「罪の奴隷」から真の「自由」へと解放してくださった。そこから各自にとっての「リ・フォーメイション」を捉え直してゆきたいと思います。私たちの現実がたとえどのような困難にみちていたとしても、どこにも希望が見えない状況であったとしても、人間の闇の中に降り立ち、友なき者の友となり、ひたすら十字架への道を歩まれた主キリストの出来事が私たちを自由へと解放し、新たに(刷新)してゆくのです。

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