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2016年12月 5日 (月)

2016年10月23日(日) 聖霊降臨後第23主日礼拝説教「下に昇る人生」

20161023日(日) 聖霊降臨後第23主日礼拝 説教「下に昇る人生」      大柴 譲治

ルカによる福音書18:9-14

「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』」13節)

 

「神さま、罪人のわたしを憐れんでください。」

 本日は福音書の日課であるルカ福音書18章から聴いてまいりましょう。先週の「やもめと裁判官」の譬えと本日の「ファリサイ派の人と徴税人」の譬えはルカ福音書だけが記録している主イエスの譬えです。その譬えの主題をルカはこう伝えています。自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された9節)。神さまの視点から事柄を見ることを通して人間のうぬぼれを正し、人を自分と比較して見下すことを戒めているのです。

 そこでは祈るために神殿に上った二人の人物、ファリサイ人と徴税人とが描かれます。「ファリサイ派の人」とはユダヤ教の中でも律法を厳格に守ろうとする一派であり、自らを「罪」や「汚れ」から分離させる傾向を強く持った人々でした(「分離主義者」)。「徴税人」とは、当時のイスラエルはローマ帝国の属国で、ローマから命じられてローマのための税金をユダヤ人から集める仕事をする者でした。「徴税人」は異教徒であるローマの貨幣を扱いますから当時は「罪人」としてひどく嫌われていたのです。

 神殿で祈る二人の態度は対照的でした。ファリサイ人は「心の中」で、十戒を中心とする律法を守ってきた自分を誇ることにおいて饒舌であり、極めてファリサイ(分離主義者)的な感謝の祈りを祈ります。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています』11-12節)。彼は明らかに「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」の一人です。「聖なる神」の前で自らを誇ることができる者とはいったい何者なのでしょうか。主イエスは私たちの心の中を常に見抜いておられます。

 徴税人の方は全く違っています。彼は神殿に足を踏み入れてもいないのです。ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』11-12節)。「胸を打ちながら」というのは自分の生き方を悔い、自らを責める動作を表していましょう。彼がなぜそのように感じているかその理由は記されていません。仕事上で何か取り返しの付かない失敗をしてしまったのでしょうか。あるいは人間関係の中で何か深く信頼を損なうことがあったのでしょうか。不治の病いを宣告されるなど健康上の理由でしょうか。あるいは信仰上の理由でしょうか。それは分かりません。しかし彼は神の前には自分が「罪人」でしかないという深い罪の自覚を持っていました。「自分は神の前に立つのさえ相応しくない者であり、信仰者として資格のない者、信仰失格者だ」と彼は感じていたのです。言わば、彼はどうしようもない「どん底体験」を経験していた。それゆえに彼は、天を見上げることもできず、自らの胸を強く打ちながら、「神よ、わたしを憐れんでください」、そう祈らずにはおれなかったのです。このような気持ちは私たちにも起こります。どん底体験を通して私たちもまたこの教会に、キリストのところにまで導かれて来たという面があるからだと思います。

 私はダビデが歌った詩編51編を思い起こします。ダビデが自分の部下ウリヤの妻バテシェバを奪い取ってしまったのにその罪の深さに気づかずにいました。それを預言者ナタンが糾弾した後でダビデは自分の置かした罪の深さに気づかされます(2サムエル12章)。その時に歌った詩編が詩編51編です(3-11節。私たちが毎週礼拝で歌う奉献唱はこれに続く12-14節から取られています)。

 神よ、わたしを憐れんでください、御慈しみをもって。深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。わたしの咎をことごとく洗い、罪から清めてください。あなたに背いたことをわたしは知っています。わたしの罪は常にわたしの前に置かれています。あなたに、あなたのみにわたしは罪を犯し、御目に悪事と見られることをしました。あなたの言われることは正しく、あなたの裁きに誤りはありません。わたしは咎のうちに産み落とされ、母がわたしを身ごもったときも、わたしは罪のうちにあったのです。あなたは秘儀ではなくまことを望み、秘術を排して知恵を悟らせてくださいます。ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください、わたしが清くなるように。わたしを洗ってください、雪よりも白くなるように。喜び祝う声を聞かせてください、あなたによって砕かれたこの骨が喜び躍るように。わたしの罪に御顔を向けず、咎をことごとくぬぐってください。

 

キリストのへりくだり〜下に昇る人生

 主はこの譬えの結論としてこう告げておられます。言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」14節)。それは詩編51:19にある通りです。しかし、神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、神よ、あなたは侮られません」。徴税人は自らの打ち砕かれた霊を、レプタ二つの供え物として神に捧げたとも申し上げられましょう。そのような自らの弱さや罪深さの自覚、どうしようもなさの自覚を神は「打ち砕かれた魂」として「よし」としてくださるのです。

 聖書は神ご自身が、御子の姿を取って天から降り、人間の現実の直中に降り立って下さったと告げています。そして死に至るまで、それも十字架の死に至るまでキリストは神のみ旨に従順に歩まれたのです(エフェソ2:)。それは私たち人間の罪を贖い、私たちをもう一度神との正しい関係の中に招き入れるためでした。この天からのへりくだりこそ神の愛を表す最も大いなる出来事でした。へりくだることを神は喜んでくださるのです。私たちもまたそのような、言わば「下に昇る人生」を示してくださったキリストに従うように招かれています。

 

「思い」の基本ポジション

 私は人間の中にはこの二人、ファリサイ人と徴税人が同居しているのだと思います。私たちはこの二人の間を行ったり来たりしているのです。私が神学生の時、1985年の秋に聖路加国際病院で臨床牧会教育を受けた時の恩師の鈴木育三という聖公会の先生が次のように語られたのを覚えています。育三先生に私はいのちの電話のボランティア訓練でも二年間お世話になりました。いつもユーモアを交えたハートフルな表現で気持ちを伝えられる先生でした。「人間の心は、思い上がりもダメだし、思い下がりもダメなんだ。思いは正しい位置に置かないとね」。なるほどと思いました。私たちの思いは揺れ動きがちで、思い上がったり思い下がったりしてしまうのでしょうが、要所要所で「正しい位置(基本的なポジション)」に置いておかなければならないのです。それは少し低めの位置かも知れませんが。

 30年振り位でしょうか、三年ほど前にある集まりで育三先生に再開したら、いかにも先生らしく突然何の脈絡もなくこういう言葉を投げかけられました。「大柴くん、『心の耳』って知っているかい?」「え、心の耳ですか?(・・・沈黙。しばらく考えるが分からない。)先生がお教えくださったように、傾聴の『聴』ということこそが大切ということでしょうか。」「心っていう言葉を英語で何と言う?」「ハートですか。」「そう。それを英語でどう書く?」「Heart」「そうだろう。真ん中に耳earという言葉が入っているじゃないか。それが心の耳なんだよ。」・・なるほど、そうか! 一本取られました。

 

聖餐への招き

 本日も私たちは聖餐式に招かれています。パンとブドウ酒を「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これはあなたの罪のゆるしのために流すわたしの血における新しい契約」と言って私たちに差し出してくださる主イエス・キリスト。このお方は私たちのためにすべてを捨てて十字架に架かってくださいました。「主を憐れんでください」と祈るしかないような小さき者を、神の御前に義として天の家に迎えるために、私たちのもとに来てくださったのです。主から私たちは新たな力をいただいて新しい一週間を踏み出してまいりましょう。お一人おひとりの上に神さまの祝福をお祈りいたします。 アーメン。

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