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2016年12月 5日 (月)

2016年10月2日(日) 聖霊降臨後第20主日礼拝説教「からし種一粒の信仰」

2016102日(日) 聖霊降臨後第20主日礼拝 説教「からし種一粒の信仰」    大柴 譲治

ルカによる福音書17:5-10

「使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき、主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう。』」 (5-6)

 

からし種一粒の信仰

 本日主イエスは「わたしたちの信仰を増し加えてください」と願い出た弟子たちに対してこう言われています。もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう」。「不信仰な者たちよ、あなたたちにはからし種一粒ほども信仰がないのか」と弟子たちを厳しく非難しているように響く言葉です。もしかすると弟子たちは「自分たちにはこれまで培ってきた信仰がある」と考えていて、主はそれを打ち砕こうとしておられるのでしょうか。本日は「信仰(ピスティス)とは何か」という主題に焦点を当てて、み言葉に聴いてまいりましょう。

 「からし種」というのはマスタードの種のことで、それはちょうど「ゴマ粒」のように、一粒がほんの1ミリにもならないような大きさの小さな種です。マスタードの瓶をよく見てスプーンですくってみると、そこには小さなからし種がたくさん見えると思います。「山椒は小粒でもぴりりと辛い」ではないですが、からし種も小粒ですが、なかなか味わい深いスパイス(薬味)でもあります。

 新約聖書で「からし種」はもう二カ所に引用されています。例えば、マルコ4章には次のような主の言葉があります。神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」30-32節。マタイ13:31の並行箇所も参照)。小さなからし種が成長すると鳥を宿すほど大きくなるというのです。からし種の中に大きな成長のエネルギーが含まれている。神の国も神の御業に対する徹底的な信頼、それがそこでは語られているのだと思います。人にはできなくとも、神にはできないことはないのです。

 弟子たちはおそらく本日の日課のすぐ前(ルカ17章の初め)にある主イエスの話を聞いて揺さぶられ、自分たちにはそのように罪を7度も赦すことができるような「忍耐強い信仰」が乏しいと感じたのでしょうか。主はこう言われました。あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさいと(3-4節)。弟子たち同様に私たちもまたこのような言葉を聞きますと、私たちも体験的に人を赦すことは簡単ではないということを知っていますので、そのようなことができない自分の弱い信仰を主に強めていただく必要があると考えるに違いありません。

 ハワイに伝わる智恵のようですが、私たちが生活の中で語るべき大切な言葉に四つあると言われます。それは短い言葉ですが、実際にはなかなか語るのが難しい言葉でもあります。一つは、英語で言いますと、「I’m sorry.(ごめんなさい)」。二つ目は、「I forgive you.(もういいよ/あなたを赦します)」。三つ目が「Thank you.(ありがとう)」。最後が「I love you.(あなたを大切に思っている)」。きちんとこれらの四つの言葉を相手に伝えてゆくことが私たちには求められているのです。

 私は3年半ほどの間、教会の牧師をしながら、月に二日ほど、ある病院の緩和ケア(ホスピス)病棟でチャプレンの役割を担っていました。そこで出会った患者さんたちは、自分の人生の最後のステージに至る中で、それまで歩んできた人生を振り返り様々なことを思い起こし、それをシェアしてくださいました。人生を振り返る時に私たちが特に思い出すことは、「あの時、ああしておけばよかった」とか「あのようなことをしなければよかった」という深い悔いの残る出来事であるようです。「覆水盆に戻らず」「後悔先に立たず」と申しますが確かにその通りです。人生の最後の段階で私たちが直面するのは「和解」という課題なのです。チャプレンはただ黙って、祈るような気持ちの中で、全身を耳にして患者さんの話に耳を傾けてゆきます。共感的な受容と傾聴の姿勢が求められるところです。

 この四つの言葉の中で特に難しいのが二番目の「I forgive you(私はあなたを赦します)」という言葉です。「あの人だけは絶対赦せない」とか「あのことだけは絶対死ぬまで忘れない」と私たちはどこかで恨みに思っていることを心に抱えているのでしょう。怒りのエネルギーが私たちを支えてきたような側面も確かにある。そのような深い所で赦せないという気持ちを持っている私たちに主は、「自分に対して罪を犯した者が悔い改めたなら、七度であっても忍耐強く赦し続けなさい」と言われるのです。マタイ福音書では、なんと「七を七十倍するまで赦しなさい」と命じられています(マタイ18:22)。赦した回数を数えているという次元をも突破して、完全に赦し続けなさいと命じておられるのです。そのようなことが人間の力でできるでしょうか。「否」です。

 

椎名麟三の場合 〜「ああ、これでおれは、安心してジタバタして死んでゆける。」(受洗時の言葉)

 「信仰」とは実は人間の熱心さや努力、修行などによって強くなってゆくものではありません。むしろ私たちは打ち砕かれて、自分の中にはからし種一粒の信仰さえないと絶望しなければならないのではないか。なぜなら「信仰」とは、「人間の業」ではなくて、私たちの中に働く「神の御業」だからです。逆説的ですが、私たちは自らの信仰のなさに愕然とし打ち砕かれることの中で、自分に頼るところ(自己神化)から離れることができるのです。私たち自身の中に私たちを支えるものは何もない。救いは必ず私たちの外から来なければなりません。

 私が牧師になって最初に福山教会に着任した頃に、先日84歳で天に召された森勉先生から伺った話です。椎名麟三というキリスト教作家がいます。彼が無神論であったところからキリスト教の信仰を告白する者と変えられて洗礼を受けた時に、椎名麟三はこのように告白したそうです。「ああ、これでおれは、安心してジタバタして死んで行ける」と。洗礼においてキリストが自分を捉えてくださった。だからこのキリストに自分の弱さや破れ、罪や恥、行き詰まりなど、すべてを委ねてゆくことができる。罪と死を前にしたら私はジタバタジタバタする以外にない惨めな存在でしかない。しかしキリストが洗礼と聖餐というサクラメントにおいて私をしっかりと捉えてくださった。だから安心してジタバタして死んでゆける。椎名麟三は作家らしく、信仰を賜るという恵みの出来事をそのような逆説的な表現で告白しているのだと思います。

 実は、毎週の礼拝の中でも私たちが体験しているように、「罪の告白(confession of sin)」と「信仰の告白(confession of faith)」は一枚のコインの両面なのです。それらは表裏一体です。自分の中に囚われているところからキリストの救いの御業を見上げて行くところに私たちは導かれてゆきます。それはもしかすると、からし種一粒のように、紙一重の差なのかもしれません。しかしそこに神が働く時、主が言われたようにこの桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くようになるのです。マタイ福音書17:20で主はこうも言われています。てんかんで苦しんでいる子供から悪霊を追い出すことができなかった弟子たちがなぜ自分たちにそれができなかったのかと問うた時、主は告げておられます。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない」」。主キリストが死に至るまで、しかも十字架の死に至までそうであったように神に徹底的に信頼して従順となり、神に全てを委ねてゆくことが求められているのでしょう。

 私たちはこれから聖餐式に与ります。私たちを捉えて放さないキリストの愛の力が私たちを造り変えて下さいますように。主が裂いて私たちたちに与えて下さったパンとブドウ酒が必ず、私たちの中にからし種一粒の信仰の種を蒔いて下さいます。否、既に私たちの心にはそれが蒔かれ、もう芽が出ているのです。私たちを通して神はご自身の山を動かすような「

信実

(

まこと

)

」を示し、不可能なことを可能にしてくださろうとしています。そのことはキリスト教の歴史だけでなく、パラリンピックなどを見ると明かでありましょう。不慮の事故や病気で手足が失われてしまったとしても、その顏は光輝いており、私たちは感動を日々新たにしたのです。どのような逆境にも人は耐えてゆくことができる。その意味で「からし種一粒の信仰」とは「自らの未来を信じる希望」と言い直してもよいかもしれません。明日という字は明るい日と書きます。どれほど逆境が襲おうとも、私たちは私たちの中に愛を注いで下さるお方(神)によって、それを乗り越えてゆくことができるのです。信ずれば、「山」も必ず動くのです。本日の第一日課であるハバクク書の言葉で終わります。「見よ、高慢な者を。彼の心は正しくありえない。しかし、神に従う人は信仰によって生きる」(ハバクク2:4。お一人おひとりに主の恵みを祈ります。

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