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2016年12月 5日 (月)

2016年10月16日(日) 聖霊降臨後第22主日礼拝説教「負けないしぶとさ」

20161016日(日) 聖霊降臨後第22主日礼拝説教「負けないしぶとさ」    大柴 譲治

創世記32:22-31 

「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」27-30節)

 

ヤコブの数奇な人生

 本日は旧約の日課である創世記32章に焦点を当ててみ言葉に聴いてゆきたいと思います。登場人物は「アブラハム、イサク、ヤコブ」のヤコブです。「ヤコブ」という名前は「かかとをつかむ者」という意味で、母リベカの胎内で双子の兄エサウと格闘し、生まれた時にそのかかとをつかんでいたところから命名されました。「ヤコブ」という名前には、兄をうまく出し抜くことで「長子の特権」を奪い、父イサクからの祝福をもだまし取ってしまうところから、「人を出し抜く者」という意味も付せられています。

 創世記に記されているヤコブの人生は数奇なものでしたが、一言で言うとそれは「格闘の人生」でした。ヤコブは兄エサウを出し抜いて長子の祝福を得てしまったために、兄から恨みを買い命を狙われることになってしまいます。彼は逃亡の人生を送ることになるのです。しかしその逃亡の途上で、「天国に上る階段の夢(ヤコブの梯子)」を見、自分の子孫が偉大な民族となるという神の約束を受けたりもする(28章)。ハランにすむ伯父ラバンのもとに身を寄せて、やがて財産を築いて独立します。そして兄エサウとの和解を志し、会いに行く途中、ヤボク川の渡し(「ペヌエル」神の顏)での出来事が本日の箇所です。神の使い(神ご自身)と格闘したことから「イスラエル」の名を与えられます。その名は「あなたは神と人と格闘して勝った」という意味です。これが後のイスラエルという国名の由来となりました。

 ヤコブはやがて4人の妻との間に娘と12人の息子をもうけ、息子たちがイスラエル十二部族の祖となってゆくのです。晩年、寵愛した息子のヨセフが行方不明になって悲嘆にくれますが、ヨセフは「夢を解く」という自らに与えられた賜物を生かしてこれまた数奇な人生を送ってエジプトファラオの宰相となるのです。やがてヤコブはヨセフとの再会を遂げ、結局一族をあげて飢饉のためにエジプトに移住することになるのです。これらの出来事は長い目で見ると「天の配剤」とも言うべき不思議な導きでした。エジプトで生涯を終えたヤコブは遺言によって故郷カナン地方のマクペラの畑の洞穴に葬られたとされています。

 そのようにヤコブの人生を振り返って見ると、今日与えられた創世記32章に明らかなように、母の胎内にある時から始まって彼の人生全体が「格闘の人生」であったのです。そしてヤコブは、ヤボクの渡しでの神の遣いとの格闘のために「大きな代償」を払うことになりました(ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた26節)。「腿のつがい」を外されたために、彼はそれ以降は足の痛みを抱え、足を引きずるようになってしまうのです。そしてこのことはヤコブだけの物語ではありません。私たち自身も人生において何者かとの格闘を体験し続けるのです。私たちの人生もまた、初めから終りまで、代償を払い続ける「格闘・葛藤の人生」です。

 

負けないしぶとさ

 しかしこの箇所をよく読んでみても、ヤコブが神の使者(神ご自身)と朝まで格闘して「勝利した」というようには私には読めないのです。正確に言えば、この勝負は朝まで続いたのに勝敗は決しなかった。それは「引き分け」に終わっているではないかと思うのです。ヤコブは格闘に勝利しなかったが「負けなかった」ということであり、その最後まで格闘し続けたヤコブに対して神は「神と人と闘って勝利した」という名を祝福として贈り与えているのです。その箇所をもう一度読んでみます。創世記3227-30

 

「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。

 

 ヤコブは祝福を得るまでは諦めず、相手に組み付いて離れなかった。とうとう根負けするようなかたちで「何者か」(=神の使い=神ご自身)はヤコブを祝福します。ヤコブは相手の名を問いますが、相手は自らの名を答えませんでした。しかし、ヤコブはその時知ったのです。自分が闘った相手が神ご自身であったことを。31節にはこう書かれています。ヤコブは、『わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている』と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた」。ヤコブが格闘した「何者か」は結局神ご自身だったのです。イスラエルという名が「神と人と闘って勝利する」という意味であることにも深い意味がありましょう。そのように人生は神と人との格闘なのです。

 この格闘には、「神との格闘」と「人との格闘」に加えてもう一つの次元があると思われます。それは「自分との格闘」です。ヤコブが負けなかったのは、「どうしても相手から祝福を勝ち取るまでは諦めない、決して負けない」という自らの中に強い決意があったからでしょう。倒されても倒されても諦めず、相手に向かっていったのでしょう(映画『ロッキー』の主人公のボクサー、ロッキー・バルボアのように)。倒れても倒れても立ち上がり続けるためには自分の中で、自分に負けない強い気持ちを持つ必要があるのです。生きるということは根源的に自己との格闘です。人生において得たいの知れない「何者か」と格闘する時、その相手は神ご自身であると同時に自分自身でもあるという面が必ずあると思います。

 しかしもう一歩踏み込んで言うならば、私たちは勝たなくてよいのです。負けなければよい。引き分けでよいのです。バネの復元力を意味する「レジリエンス」という言葉が最近ではよく使われ、それは「逆境力」「折れない心」とも言われたりもしますが、「負けないしぶとさ」を持てばよい。七度転んでも八度立ち上がるという力を与えられてゆけばよいのです。それを神は祝福してくださるのだということを本日の旧約聖書の日課は私たちに告げているのです。先週も申し上げましたが、最近私は「復活」とは「再び立ち上がる」という語ですが、「七転び八起き」と訳することができるのではないかと感じています。そうすると「信仰生活」は「七転八倒」ということになりましょうか。

 どこからこのヤコブのような「負けないしぶとさ」を与えられるか。それはイエス・キリストです。私たちのために十字架の苦難を最後まで背負ってくださった主キリストを見上げる時に、私たちはそこから尽きることのない力を与えられてゆくのです。人生七転び八起きです。負けないしぶとさ、どんなに倒されても再び立ち上がってゆく力を、キリストは私たちに与えてくださる。私たちは本日も聖餐式に招かれています。パンとブドウ酒を「これはあなたのために与えるわたしのからだ」「これはあなたの罪のゆるしのために流すわたしの血における新しい契約」と言って私たちに差し出してくださる主イエス・キリスト。このお方が私たちの七転八倒の格闘をご自身に引き受けてくださったのです。主の愛を深く味わいつつ、七転び八起きという主に頼って立ち上がる力、負けないしぶとさをいただいて新しい一週間を踏み出してまいりましょう。お一人おひとりの上に神さまの祝福をお祈りいたします。 アーメン。

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